金曜ロードSHOW! 特別エンターテインメント『人生が二度あれば 運命の選択』
2017年2月24日(金) 21時00分~22時54分 日テレ系列で放送
大野倫、43歳。元プロ野球選手
1991年、夏の甲子園。沖縄水産高校のエースとして決勝のマウンドに立った大野の肘は、ここまで6試合700球以上を投げ悲鳴を上げていた。春先から痛めていた肘は限界を超えていたのだ。
そのケガの影響で、投手生命は絶たれた。あれから25年。投手としてプロで活躍したいと夢見ていた大野に、会いに行ったのは元大阪府知事、橋下徹。
出典:http://www.ntv.co.jp/jinseinido/
「もう一度あの時に戻れるならば、人生が二度あれば、マウンドに立つことをやめますか?」
橋下の問いかけで明かされる大野の胸に秘めた壮絶な思いとは?
大野倫の今現在
九州共立大学沖縄事務所長を務める。また、傍らで出身地のうるま市でボーイズリーグの「うるま東ボーイズ」を指導し、球数制限など健康管理に配慮している。
自分の経験からのことです。故障をしないように。
大野倫大学時代は
故障のため投手は続けられなかったが、高校通算18本塁打の長打力を活かして外野手に転向した。また、ひじは曲がったままだったものの、在学中に遠投で100mは投げられるまでに回復した。1年春から福岡六大学リーグにDHとして出場し、秋は外野手として打率.450、4本塁打、10打点の成績を残している。
翌1993年2月には最年少の日本代表メンバーとしてアジア選手権に参加し、3年後のアトランタ五輪代表候補としても期待されていた。
2年春のリーグ戦では四番を務めて4割を超える打率でリーグ優勝に貢献し、全日本選手権では朝日大学との1回戦で2ランホームランを放っている。
同年の日米大学野球とユニバーシアードでは日本代表に選ばれた。
4年生になると主将を任され、同年の日米大学野球では代表に復帰している。
福岡六大学リーグ新記録の通算18本塁打を放ち、1995年のドラフト会議で巨人から5位で指名され入団。
契約金と年俸はそれぞれ7,000万円、960万円(いずれも推定)だった。
大野倫最高年俸
巨人時代の1999年は一軍の控え外野として自己最多の11試合に出場し、オフには180万円増の年俸1,180万円(推定)で契約を更改している
大野倫のプロフィール
氏名:大野倫(おおのりん)
出身地 :沖縄県具志川市(現・うるま市)
生年月日 :1973年4月3日(43歳)
身長/体重 :185 cm/85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1995年 ドラフト5位
初出場 :1997年8月5日
最終出場: 2001年4月7日さいこう
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
沖縄県立沖縄水産高等学校
九州共立大学卒業
読売ジャイアンツ (1996 – 2000)
福岡ダイエーホークス (2001 – 2002)
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沖縄水産高校の栽弘義監督(故人)の采配を巡っては批判が噴出
1991年夏の甲子園大会で、当時3年生エースだった大野倫への常軌を逸脱した酷使の起用(右肘の骨折を知りながらも無理矢理投球を命令)は、各所から批判を浴びた。
大阪桐蔭との決勝戦では萩原誠に本塁打を浴びるなど、13失点で敗れた。毎日、栽監督のマッサージを受け、6試合で36失点しながら773球を投げ抜いたが、この決勝戦が大野の最後のマウンドとなった。
大会後、右ひじの疲労骨折と診断され、手術を受けたところ剥離骨折した親指の爪ほどの骨片が複数摘出された
(これについては夏の大会前に控え投手が病気で投げられなくなったため投手のできる選手が大野一人になってしまいやむを得ない状況であった。
大野選手が暴言?
沖縄水産でエースとなった3年春、練習試合のダブルヘッダーで18イニングをなげた。
右肘に違和感。夏の県大会も痛みに耐えながら関東を続けた。
右肘は疲労骨折を起こしていました。
前年夏が準優勝、チームメイトにはお前のせいで甲子園に行けなかったら一生恨むぞ。
言われたりし、投げないという選択がなかった。
甲子園夏の大会もほぼ一人で投げぬき、大阪桐蔭に決勝戦で8-13で敗れる。
肘はぼろぼろ、腕はまっすぐ伸ばせなかった。
そんな時こんな記事がでた。
「いつか栽監督を殺してやる。毎日そればかり考えていました。1日として監督を恨まない日はなかった」九州共立大のとき取材に答えたときの記事。
記者の捏造だった。栽監督に申し訳なかった。
しかし栽監督は大野倫はそういうことを言うやつではない。と取り合わなかった。
大野倫には救いでした。
もしアノ時点で自分が監督であっても同じことをするかもしれない。
しかし、一人に頼る野球はしていないとおもうと述懐しました。
やはりアノ故障は大野倫には取り返しのつかない事故でした。
まとめ
橋下徹氏の問いかけに
高校生の自分に戻って、同じ状況でピッチングするか?
との質問には、自分は故障してもまた投げるでしょうと大野倫は言いました。
しかしもし沖縄の高校でなく、本土の高校生なら自分は絶対登板はしないといってました。
このあたり沖縄と本土で甲子園にかける温度差が全く異なりますね。
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