2017年2月24日(金) 21時00分~22時54分
金曜ロードSHOW! 特別エンターテインメント『人生が二度あれば 運命の選択』
「杉浦正則」
ミスターアマ野球と呼ばれています。
実力がありながら、プロ入りを拒否したピッチャーです。
杉浦正則2008年北京五輪から8年。
晴れて2020年東京五輪で野球・ソフトボールが正式種目に復活することが3日(日本時間4日未明)、リオデジャネイロで行われたIOC総会で決まりました。
そんな記念すべき日にバルセロナ、アトランタ、シドニーと3度の五輪に出場し、世界記録でもある通算5勝を挙げた「ミスターアマ野球」こと杉浦正則の人生は?
なぜプロに行かなかったのか?
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杉浦正則の経歴
出身地 和歌山県伊都郡九度山町
生年月日 1968年5月23日(48歳)
身長体重 180 cm80 kg
選手情報
投球・打席 :右投右打
ポジション :投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
和歌山県立橋本高等学校
同志社大学
日本生命
監督・コーチ歴
日本生命
国際大会
代表チーム 五輪:1992年、1996年、2000年
杉浦正則の現在
日本生命の法人営業部長をされています。
今は一切野球とは関わっていません。
杉浦正則さんは区切り区切りでけじめをつけて人生を設計している!
まさに日本生命に必要な人材ではないですか?
杉浦正則はアマチュア野球にこだわった
アトランタの準決勝、決勝で先発した杉浦正則(現48歳)は大会後、球界の寝業師と呼ばれたダイエー(現ソフトバンク)の根本陸夫から「君には今後の野球界を背負ってもらわないといけない」と口説かれてもプロ入りしなかった。
当時プロは出場できなかった五輪での金メダルにこだわった。
きっかけは、バルセロナだった。日本生命に所属していた杉浦は準決勝で敗戦投手になり、宿舎で号泣していると、仲間たちから「最後の試合を勝って終わろう」と慰められた。気持ちを切り替えた杉浦は翌日もリリーフを任され、銅メダルを獲得。
「あの言葉で立ち直り、仲間の素晴らしさを知った。一発勝負の悔しさや喜びも味わい、いつか必ず金を獲りたいと思った」
シドニー(2000年)では、代表発表直前に「杉浦落選」と報じられた。結局、選出されたが気持ちの整理がつかず、辞退が頭に浮かんだ。その夜、同志社大学の後輩である宮本慎也から電話があり、気持ちを吐露すると諭された。
「何いっているんですか。貫いてきた目標に、もう1回挑戦してください」
1997年の日本選手権を観戦したボビー・バレンタイン(ニューヨーク・メッツ監督)が、杉浦のピッチングに感銘を受けて「来シーズンからメッツで投げて欲しい」とコメントしたが、杉浦は意に介さなかった。
バルセロナオリンピック終了後、杉浦の心はすでに4年後に向いていた。
しかし、すべての選手が五輪を目標にしているわけではない。アトランタ直前の95年、チームメートの仁志敏久(日本生命―巨人―横浜―米独立リーグ)がプロ入りを表明するなど、当初はプロへのアピールの舞台という認識だった。
2度目の五輪は決勝で念願の王者キューバと対戦。先発した杉浦は2回6失点で降板、銀メダルに終わったが「自分のなかではすごくうれしかった。充実感のほうが悔しさよりも勝ってた」と述懐する。その充足感は、いよいよプロへと気持ちを傾かせる。帰国後は、ダイエー(現ソフトバンク)、そしてMLBのメッツからオファーがあった。
しかし杉浦正則はまだ金メダルを取っていなかった。金へのこだわり
このようなアマチュア精神を称え杉浦は「ミスターアマ野球」と呼ばれる。
オリンピック通算5勝は世界記録である。
杉浦正則のアマ野球引退後
2001年から2004年までの4年間、日本生命の投手コーチとしてチームを支えた。
2005年は社業に専念したが、2006年からは日本生命の監督に就任。
同年の社会人野球日本選手権大会でチームを決勝まで導いたが、富士重工業の前に屈し、準優勝に終わっている。
2009年シーズン終了後に監督を退任した
2010年よりNHKで高校野球の解説を担当。
夏大会(甲子園)3日目第1試合「中京大中京VS南陽工」戦のテレビ中継で初解説。
2015年5月より社会人野球日本代表投手コーチに就任しました。
杉浦正則の球速
149km/h 杉浦正則(日本生命) 1994/9/5
投球フォームは真上から投げるタイプではなくスリークオーターぎみ。
杉浦正則のドラフト
ドラフト指名をうけたことがない。あまりに本人のプロ入り拒否の意思が強く、どのチームも指名しなかったのです。
しかしもし普通に指名が可能であったら10球団は指名していたでしょう。
28歳の
杉浦正則がプロ入りしなかったワケ
同志社大学生のころは単純にプロでやっていける自身がなかった。
社会人に成ってからは当時プロ繊手はオリンピックには出場できなかったので、アマチュアにこだわった。
最期は金メダルにこだわった。もしバルセロナで金メダルを取っていたら、杉浦正則はプロ野球に入団していたかもしれません。
杉浦正則本人が語った。やはり金メダルが欲しかった。キューバをオリンピックで破って金メダルが欲しかった。
人生が2度あれば、上田晋也の質問に対して、今と同じルールだったらプロに行っていた。
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