ピーター・ノーマンのメキシコ五輪表彰台の勇気が後の人生を狂わせることに!

1月26日(木) 奇跡体験アンビリーバボー フジテレビ系列 19:57~ 放送

元メキシコ五輪200m代表銀メダリストピーター・ノーマンの物語です。

表彰台のピーター・ノーマンの晴れやかな姿と後に待ち受ける彼の運命を考えると涙なしには今日の放送は見れません。

 

時をさかのぼること今から約30年前。マット・ノーマン(当時12歳)の伯父ピーター(当時40歳)は1968年メキシコオリンピックで銀メダルを獲得したトップ・アスリートでした。

しかし、マットにはある疑問があったのです。

陸上のメダリストともなれば英雄であり、引退後も活躍している者も多いはず。なのに自分のおじさんときたら、アルバイト生活の冴えない中年じゃないか!

ピーターの名はオーストラリア国内でもほとんど知られておらず、彼はアルバイトをして生計を立てていたのだった。

 

一体なぜなのか。マットはピーターに理由を尋ねました。そして、ピーターは自分の歴史を語り始めました。

1968年のメキシコオリンピックに出場を決めたピーター。

当初、彼は全く期待されていなかっのです。オーストラリアの陸上界でもノーマーク、もちろん世界でも無名でした。

なぜなら彼が出る男子200メートル走には世界記録保持者のジョン・カーロスやトミー・スミスといったアメリカの一流選手が出場者に名を連ねていたためだった。

ところがそんな前評判を覆し、ピーターは予選でいきなりオリンピック記録を更新し、決勝進出を決めたのです。

ピーターはその気さくな人柄からすぐにジョンやトミーと打ち解ける。 実はこの時、アメリカの黒人選手である2人は、ある特別な思いでこのオリンピックに臨んでおり、そのことが、ピーターの運命をも一変させる、ある1枚の写真へとつながっていのでした。


メキシコオリンピックにおいて、黒人選手のトミー・スミスとジョン・カーロスが
行った『ブラックパワー・サリュート』は、近代オリンピックの歴史において、最も
有名な政治的行為として知られています。

 

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メキシコ後のピーター・ノーマン

トミー・スミスとジョン・カーロスはメキシコオリンピック開催中にアメリカ陸上界から除名、一方オーストラリア人のピーター・ノーマンには何のおとがめもないかのように思われましたが。白人中心の当時のオーストラリアでは黒人の味方をする行動など全く許されませんでした。

オリンピックでの抗議に賛同したことで、地元のオーストラリアから批判され、厄介(やっかい)物扱いされるようになります。

もともと、オーストラリアは白人最優先主義の社会で、先住民・アボリジニに対する差別も残っており、有色人種への人種差別がある文化を持っていました。完全な差別主義の国。有色人種への差別はアメリカより激しかったかもしれません。

ピーター・ノーマンは、オーストラリアのトップアスリートであり、1972年のミュンヘンオリンピックの予選会で何度も勝っており、出場できる資格を持っていたにも関わらず、代表に選ばれませんでした。これはメキシコ五輪で彼が取った行動への仕返し。

オーストラリア陸上界いやオーストラリア社会はメキシコ五輪でピーター・ノーマンが取った行動を絶対に許していなかったのです。

その後の、ピーターの人生は不遇でした。

1985年、痛めたアキレス腱が壊疽(えそ)し、足を切断する寸前まで悪化しました。

理不尽なオーストラリア社会を恨みピーター・ノーマンは、その後、うつ病とアルコール、鎮痛剤への依存で苦しみました。

回復した後は、オーストラリア政府のスポーツやレクリエーションに関わる部門で懸命に働きました。

ピーターのオリンピックでの記録は、オーストラリアの記録として破られていません。驚きです。

それにも関わらず「100人のオーストラリアの偉大なアスリート」の名前にピーターの名前はありません。あからさまな嫌がらせ。

2000年に行われたシドニーオリンピックにも、彼は招待されなかったのです。

32年たっても認めてもらえない。

本来であれば、オーストラリアのヒーローである人物が、1968年の件で、歴史から抹消されるような扱いを受けたのです。

そして、ピーターは2006年に心臓発作で64歳で亡くなりました。

彼の無念さはどんなだったか?

オーストラリア政府は、結局、ピーターが亡くなるまでピーターに対する行為を謝罪をすることはありませんでした。

葬儀では、トミーとジョンが棺側付添い人を務めています。

出典:Sydney Morning Herald

トミー・スミスは、ピーターのことを「道徳的で、信念のある男だった。」
たたえました。

ジョン・カーロスは、「彼は、兄弟だ。」と語っています。

表彰台に上がった2人とピーターノーマンは強い絆で結ばれていたのです。

(出典元:theconversation.com/theguardian.com)

 

そして、ピーターの死後、2012年にオーストラリアより公的な謝罪が行われました。

そして以下のような文章を発表しています。

・1968年に彼が残した記録は未だ破られていない
・ピーター・ノーマンの勇敢さを認め、敬意を払う(ブラックパワー・サリュートに賛同した件)
・何度も予選に勝っていたのにも関わらず1972年のミュンヘンオリンピック代表に彼を
選ばなかったことを謝罪する
など

 

 

トミー・スミスとジョン・カーロスのその後

トミー・スミスとジョン・カーロスはメキシコオリンピック開催中にアメリカ陸上界から除名、一方オーストラリア人のピーター・ノーマンには何のおとがめもないかのように思われましが。

白人中心の当時のオーストラリアでは黒人の味方をする行動など全く許されませんでした。
男子 200m競争が終了した 1968 年 10 月 17日夕刻、アメリカ人選手で 19 秒 83 の世界記録で優勝したトミー・スミス、オーストラリア人で 20 秒 06 の記録で 2 位のピーター・ノーマン、20 秒 10 で 3 位につけたアメリカ人ジョン・カーロスのメダリスト三人はメダル授与のために表彰台に向かいました。

 

二人の黒人選手は黒人の貧困を象徴するため、トレーニングシューズを履かずに
黒いソックスを履いてメダルを受け取った。

 

さらにスミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首にまとい、カーロスはクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するためロザリオを身につけていた。

一方でノーマンもほかの二人に同調、三人で OPHR のバッヂを着用した。

カーロスは当初身につける予定だった自分の黒の手袋を忘れたが、ノーマンがスミスの手袋を二人で分かち合うよう提案し、スミスが右の手袋を、カーロスが左手の手袋をつけることに
なった。

 

そしてアメリカ国家が演奏され、星条旗が掲揚されている間中、スミスとカーロスは、目線を下に外し地面を見据え、頭を垂れ、高々と握り拳を突き上げました。

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会場の観客からは、同じアメリカ人からもブーイングが巻き起こりこの時の様子は世界中のニュースで取り上げられました。

 

後にスミスは「もし私が勝利しただけなら、私はアメリカ黒人ではなく、一人のアメリカ人であるのです。しかし、仮にもし私が何か悪いことをすれば、たちまち皆は私をニグロ(ニグロイド)であると言い放つでしょう。

 

私たちは黒人であり、黒人であることを誇りに思っています。アメリカ黒人は
(将来)私たちが今夜したことが何だったのか理解することになるでしょう。」とこの時のことを語っています。
これらの行動は人種差別に抗議するデモンストレーションとしては確かに有効であ
ったかもしれない。しかし、二人にはね返った代償はあまりに大きいものだった。

国際オリンピック委員会(IOC)会長のアベリー・ブランデージは、オリンピックにお
ける内政問題に関する政治的パフォーマンスを行うことは「非政治的で国際的な場と
してのオリンピック」という前提に相反すると考えていました。

 

メダル授与式における彼らの示威行為に即座に反応して、ブランデージは表彰式の翌日、スミスとカーロスをアメリカ・ナショナルチームから除名、オリンピック村から追放すると命令を下しました。

アメリカオリンピック委員会はこれを一度は拒否したものの、IOC がアメリカ・
ナショナルチーム全体の追放をちらつかせたため命令に応じ、スミスとカーロスは出
場停止となり、オリンピックから追放されるに至っりました。

 

IOC 広報部は、二人の示威行為が「オリンピック精神の基本原理に対する計画的で暴力的な違反」であったと述べました。

二人はアメリカオリンピック委員会より選手団から除名、そのうえ永久追放の処分を受けたのである。

そして、「同じような行動をとった場合、オリンピック精神を
踏みにじったものとみなし、厳しい処分を与える」という警告を、全選手に向け発した。

それでも、スミスらに対する処分に抗議してか、ほかのアメリカの黒人選手たちも様々な行動をとり続けました。

自ら選手団を脱退した五人、黒いストッキングを履いて表彰台に上がった走り幅跳びのボブ・ビーモンとラルフ・ボストン、黒いベレー帽をかぶり表彰を受けた 4×400mリレーのメンバーたち…。

彼らアメリカ黒人選手たちが競技では圧倒的な強さを見せていたため、そのデモンストレーションはなおさら、世界中の人に波紋を巻き起こす結果となりました。

 

まとめ

このオリンピック表彰台の示威行動には、キング牧師の暗殺事件が大きく関わっていると思われます。

1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I’ve Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。

 

その後メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれました。

なくなる前の日のキング牧師の演説の一部です。

 

…前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。

皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。

私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

 

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