10月6日(木)カンブリア宮殿 テレビ東京系 22:00~
フルーツの老舗千疋屋の社長大島博氏が出演します。
大島博社長のプロフィール
現職:株式会社千疋屋総本店代表取締役社長
生年月日:1957年3月13日(59歳)
最終学歴:1981年3月 慶応義塾大学法学部政治学科卒業
1983年9月ロンドンへ翌年3月期国
1984年4月 株式会社トップス・インターナショナル入社
1985年11月 株式会社トップス・インターナショナル退社
1985年12月 株式会社千疋屋総本店入社
貿易部長を経て常務取締役就任
1998年2月 代表取締役社長就任
商いには信用と信頼が何よりも大切ですし、千疋屋ではどこよりも新鮮かつ厳選された果物を提供することに努めてきました。
お客様にお届けする商品の全てが食べ頃という完璧な状態であるべきですが、万難を排しても生ものですのでごく少数ですが何らかの不都合が生じてしまう場合もあります。
そのため、全ての商品に保証書を同梱し、お客様の意に添わなければ何度でも交換するのが千疋屋のポリシー。
健康志向が高まっている昨今、果物にも安全性を求めるお客様の声に対応すると共に、日本未紹介の果物等も意欲的にお客様にご紹介して行きたいと社長は考えています。
さらに、果物の品質向上にも産地との協力関係に力を注いでいます。例えばマンゴーは数年前まで全て輸入に頼っていましたが、近年は宮崎・沖縄で栽培し、原産国のものより美味しく作ることに成功しましたということです。
膨大な時間を研究に費やして実り、味・香り・こく・形のそろった果実は、ひとつの文化であると自負しています。
平成 17(2005)年夏完成予定の新本店ビル(38階建て大型複合ビル、仮称・室町三井新館新築工事)に構える店のプロジェクトは、大島博社長にとって一世一代の大事業であったといえます。
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千疋屋の歴史
千疋屋は江戸時代後期の創業
今年で創業182年になります。
江戸時代後期の天保 5年、武蔵の国埼玉郡千疋の郷(現・埼玉県越谷市東町)で大島流槍術の指南をしていた初代・大島弁蔵が、道場の庭で育てた果物や野菜を船で運び、江戸葺屋町(ふきやちょう)の「おやじ橋」のたもと(現・日本橋人形町3丁目)で商いを始めたのが創業にあたります。
出身地の名をとり「千疋屋弁蔵」と名乗り、「水ぐわし(甘い果物)安うり処」の看板を掲げ、柿・びわ・ぶどう・みかん等を販売していました。後に愛称で「千疋屋」と呼ばれ、それが屋号となりました。
弁蔵の商いは庶民的なものでしたが、二代目・文蔵の代で商売が大きく飛躍しました。浅草の鰹節の大店「大清」の娘である妻むらの支えもあり、幕末の著名人のご愛顧を受けるようになりました。
これが高級品を取り扱う転機となり、その後徳川家御用商としての信頼を得て繁盛したようです。
明治 10(1877)年に三代目を継いだ代次郎(以降襲名)は、当時活気を帯びてきた現在本店のある日本橋本町(日本橋室町)に店舗を移転し、外国産の果物のみならず種子の輸入に力を入れ、りんご・さくらんぼ・夏みかん・マスクメロンなどの栽培を行い、我が国初の果物専門店を創立するなど、先見の明があったように思います。
大正時代には、現在の世田谷区上馬に約3000 坪の大農場を開設し、マスクメロンをはじめとする高級フルーツを次々と生産しました。
その後、関東大震災や戦争による店舗焼失などもあったが、今の千疋屋ブランドがあるのは、先人たちがのれんを守りながら、常に時代の先を読んで、より良いものを、新しいものをと努力してきた結果です。
40歳で6代目社長になり、3年間は父のやり方でやったが、千疋屋に老舗としての強みがある一方で、時代とのズレがあるように感じました。
40歳で6代目社長に就任、3年間は父のやり方を踏襲しました。
千疋屋には老舗の強みがある一方、ブランドに高級感が強く若い顧客には敬遠されるところがありました。
そこでロゴ・マーク、包装紙や容器のデザイン、05年に開店した日本橋三井タワーに新装オープンした新本店ビルの内装など、すべてコンセプトから作り直した。同時に、若い人が買い求めやすい価格帯の洋菓子や、果物を使った加工品などの品ぞろえに力を入れました。
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