徳本篤司さんは現在鳥羽の答志島でパン屋を営んでいます。
鳥羽市の離島・答志島、若い夫婦が島で初めての手作りパン店「島のパン屋〜HaNaRe(ハナレ)〜」。
商圏の狭さから一部には先行きを危ぶむ声もあるが、2人は「島外に出なくても事業が起こせる先例になりたい」と張り切っている。
夫婦は島内の桃取町の徳本篤司さん(41)、江里さん(34)で、桑名市のホテルに勤務して知り合った。答志島出身の江里さんが古里へのUターンを強く希望したため、2016年初めに島で結婚式をあげ、江里さんの知人が勤める鳥羽商工会議所の勧めでパン屋の開業を決意しました。
答志島にパン屋を作った理由
30の頃、妻の実家に数カ月に一度程度遊びに訪れていましたが、島にはお店も少なく、歩いてみて顔を合わせるのは高齢の方ばかり。
〝遊びに〟とは言っても実際には彼女の実家で食事をいただくことぐらいしかなかったのを覚えています。
これまで街暮らしをしてきた徳本篤司さんにとっては初めての経験で、生活の不便な島で暮らすことになるとは、頭の片隅にもありませんでした。
こんな徳本篤司さんに島暮らしを決意させたのが「将来子どもが産まれたら、自分の育ってきた島の環境で、心豊かな子に育てたい!」という妻の江里さん言葉です。
徳本篤司さん自身、妻の生まれ育った島で子育てを答志島の桃ももとり取地区は、妻が幼い頃から高校を卒業するまで育ったなじみの町で、徳本篤司さん住まいもここにあります。
徳本篤司さんは三重県の北部に位置する人口十数万人の桑名市出身。一般的なサラリーマン家庭で育ち、地元の高校を卒業後、隣町の調理製菓の専門学校を経て、桑名で料理人として働いていました。
10年ほど前に妻と知り合い、お付き合いする中で、答志島についていろいろな話を聞きました。
恥ずかしながら、それまで三重に離島があるのは知っていた程度で、それ以上のことについてはまったくの無知でした。妻からは、島の人々の生活、基幹産業である水産業のこと、離島の不便さまで多くのことを教えてもらいました。
彼女の口癖は「いずれは桃取に帰りたいだったのです。
何度か島を訪れる中で、高齢化や店舗の少なさなどはあるものの自然や人の温かさに魅力を感じており、簡単に移住を決めることができたのだと思います。
パン食も多い島の人たちその後、徳本篤司さんは和食の調理師として17年勤めた職場を退職、平成27年10月に鳥羽市の移住者支援制度を活用し、桃取地区の古民家を購入して移住しました。
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「島のパン家~HaNaRe~」の場所やアクセス
島のパン家 〜ハナレ〜
0599-20-0099
営業時間
9:00~18:00 (完売終了)
定休日
木曜日、金曜日
住所:三重県鳥羽市桃取町259
徳本篤司さんはまずは島の生活に慣れようと、島の方々とコミュニケーションをとることから始め、そのなかで彼らが何を必要としているのか、自分には何ができるかを考えていきました。
妻の実家がワカメや牡蠣養殖を営んでおり、その手伝いをしながらいろいろな方とお話をするうちに、島の方はパン食が多く、漁師さんもおやつにパンをよく食べていることを知りました。
「島でパン屋……。よし、やろう!」この決断に迷いはなく、すぐに構想を練り始めましたが、パン屋で働いた経験のない私がどこまで島の方々に受け入れられるパンを焼けるのか、不安はありました。
パン屋は早朝から作業があるため、離島から本土のパン屋さんへ修行に通うことも難しい。幼い頃から好きで日常的に行ってきたお菓子づくりと、製菓学校で学んだ知識、調理師としての経験が頼りだった。
そこで、開業日までの半年間、毎日パンを焼いては近所の方々などに試食していただき、反応やご意見を参考に試行錯誤を繰り返しました。
鳥羽の離島初のパン屋の店舗は、自宅の一部の和室、玄関部分の約10坪を改装することにしました。
開業資金は鳥羽商工会議所の協力で無事に調達することができました。幸運なことに平成28年度は、鳥羽市が「移住定住元年」と位置づけて、市に移住して起業する際の施設整備費などを支援する制度(鳥羽市移住起業者施設整備事業費補助金)を創設しており、それも活用することができました。
]そして同二八年七月末に「島のパン家〜HaNaRe(ハナレ)〜」をオープンしました。
]漁業の島の特徴を活かした経営島の漁師さんの一日は、日が昇る手前ぐらいから始まりますが、私の場合はそれより少し早い午前3時頃から仕込みを開始します。開店は午前9時。それまでの六時間で小さなカフェオーブンをフル稼働させ、約二五種類、150から200個ほどのパンを、棚に目一杯並ぶように焼き上げます。
本土のパン屋さんと同じように、お客さんが選ぶ楽しみを持てるよう心がけています。開店時間の頃には、店棚目一杯に並ぶ商品。島の特産物を使ったパンもある。
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