平野紫耀がマッチ CMで天龍源一郎と共演
マッチ【大塚食品】ビタミン炭酸MATCH「戻らない日々」篇 30秒
[youtube id=”ex6AwLJz94A” align=”center” mode=”normal”]
マッチ【大塚食品】ビタミン炭酸MATCH「戻らない日々」メイキング編
[youtube id=”PnNAN3wyMx0″ align=”center” mode=”normal”]
マッチCMで人気急上昇中の平野紫耀がなんと今度は大塚食品飲料水「MATCH」のCMに出演することがわかりました!
いろいろな場面で活躍している平野くんですが、Jr.で単独CM出演が決まるのはすごい。
さて、CMで「戻らない日々」編で平野紫耀が大人のなりたくないというのに対し、俺はいつ大人になってもいいといったら、パンチパーマのおじさんになっているもの
パンチというかアイパーというかなんせ、パーマおじさんです。それもかなりいかついです。
こんな大人になったら、驚いちゃいます。
そうこのおじさんは天龍源一郎さんです。
元お相撲さん、それも西前頭筆頭まで出世しています。本当なら親方になっていてもいい人です。
その後全日本プロレスに転身し人気プロレスラーになりました。
それでは天龍源一郎を紹介します。
四股名 天龍 源一郎
本名 嶋田 源一郎
生年月日 1950年2月2日(67歳)
出身 福井県勝山市
身長 186cm
体重 112kg
BMI 32.37
所属部屋 二所ノ関部屋
あの有名な大鵬さんの部屋です。
最高位 西前頭筆頭
生涯戦歴 393勝355敗(77場所)
幕内戦歴 108勝132敗(16場所)
優勝 十両優勝1回
データ
初土俵 1964年1月場所
入幕 1973年1月場所
引退 1976年9月場所
なんと12年間も相撲を続けるも、
引退後 プロレスラー
勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで大鵬が嶋田の元へやって来て大相撲へ勧誘した。
スポンサーリンク
その結果として入門が内定したことから中学2年の時に墨田区立両国中学校へ転校した。
1963年12月、二所ノ関部屋に入門。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。
授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て天龍はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたといいいます。
まだ当時は力士は勉強など邪魔という雰囲気がありました。
「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。
自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受けました。
それが原因で相撲に嫌気が指したところに、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(のち筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意。
1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団しました。
実際全日本プロレスに入門し試合は続けていましたが、大相撲あがりの人が格闘技に転身してからは非常に困難を極めました。
- スタミナがない
- 技がない
- 動きの流れがわからない
- 受け身が下手
等があり初期の評価は散々でした。
しかしディック・スレーターの代打として人間風車ビル・ロビンソンのパートナーに起用され、馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に飛躍のきっかけを掴む。
天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。
この年の秋にはNWA世界王者超人気レスラー リック・フレアーへの挑戦権も獲得しました。
天龍源一郎ジャイアント馬場最期の32文ロケット砲を受ける
1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田と共に「鶴龍コンビ」を結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組戦では馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲を受けています。
天龍源一郎現在はプロレスを引退
2015年2月9日、記者会見を開き「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明しました。
引退の理由として、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている
スポンサーリンク