日本ハムの石井裕也投手(37)が22日、今季限りで引退すると表明しました。
今季は1軍での登板が全くなく、「14年間、プロ野球選手として続けて来られたことにとても感謝しています」と球団を通じてコメントしました。
石井裕也投手は横浜商工高から三菱重工横浜クラブを経て2005年に中日に入団。2008年6月に小池正晃外野手とのトレードで横浜(現DeNA)に移り、2010年4月に江尻慎太郎投手とのトレードで日本ハムに移籍しました。
先天性の難聴を乗り越え、救援左腕として活躍。通算成績は329試合に登板し、19勝19敗6セーブ、防御率は3.06でした。
石井祐也の先天性難聴とは
石井投手は左耳が全く聞こえず右耳は補聴器の利用でかすかに聞こえる程度。
本人が手話出来るかは不明ですが日常会話は手話を使わず口話で聞こえない部分を補っていると思われます。
マウンドでは補聴器のスイッチを切っています。
聞こえない部分は優れた瞬間視で補っているらしい。
耳元での大声は聞こえやすいですがかえって聴力を悪くするので意味がありません。
先天的な原因による難聴(先天性難聴)は、出生時に難聴が生じています。新生児に最も多くみられる異常です。
主な原因は、遺伝性、または胎児期の発達異常です。ワクチンが開発されるまでは、妊娠中に母親が風疹にかかることが、先天性難聴のもっとも一般的な原因でした。
石井裕也投手がこのケースに当たるかは確認できませんが・・
難聴の中プロスポーツを続けてきたのはすごいことだと思います。
人知れず努力されたことも有るでしょうね。
打球の方向が非常につかみづらいでしょうね。
守備に影響してくるのは必須です。
プロ中日時代
2005年、プロ初登板では初球を広島前田智徳に本塁打されました。中日では即戦力左腕リリーフとして期待されたが、奪三振率は高いが制球がいまひとつで、チームの投手陣の層が厚かったこともあり、一軍と二軍の往復が多かったのです。
2007年にサヨナラ負けを喫した際、谷繁元信に怒鳴りつけられたが、「耳の聞こえない自分に対して野球のことで初めて本気で叱ってくれて嬉しかった」と、野球人生で最も印象深かったことに挙げている。
これは谷繁の愛情あふれる注意です。
2008年は一軍登板がないまま、シーズン途中に小池正晃とのトレードで横浜ベイスターズに移籍。不本意なシーズンとなりました。
プロ横浜時代
すぐに勝利の方程式に抜擢され、6月からの入団にもかかわらず自己最多の35試合に登板、2勝14ホールドを挙げ防御率2.38と結果を残し信頼を勝ち取りました。
2009年は前年抑えに回っていた寺原隼人に代わって守護神に抜擢されるが、6セーブを挙げたもののすぐに調子を落として救援失敗を繰り返し、現巨人の山口俊に守護神の座を奪われてしまいました。
2010年の開幕直後、江尻慎太郎とのトレードで北海道日本ハムファイターズに移籍。
2012年は開幕直後に難聴に起因する目眩のため登録抹消。症状は悪化し、一時は野球どころでない状態に陥った。しかしなんとか快復し、8月末に一軍復帰。その後は閉幕までリリーフで投げ、18試合で2勝1敗6ホールド、防御率1.59の成績を残し、日本シリーズでも好投。
2013年は開幕から左のリリーフとして登板。9月15日の福岡ソフトバンクホークス戦で膝に打球を受けて登録抹消され、そのままシーズンを終えたが、自己最多の51試合に登板、4勝6敗17ホールド、防御率2.74の成績を残しました。
2014年は開幕前に肉離れで離脱。5月に一軍復帰したが、6月半ばにまた二軍落ち。シーズン終盤に戻ってきたが、最終的には13試合で1勝0敗、防御率4.66と日本ハム移籍後では最低の数字に終りました。
2015年は左のリリーフとして登板し、自己最多タイの51試合に登板し、7ホールドを挙げました。
2016年はコンディション不良で7月から登板。左のワンポイントとして22試合に登板し12ホールドを挙げ、4年ぶりの優勝に貢献しました。
2017年は8試合の登板に留まりました。
石井投手は左耳が全く聞こえず右耳は補聴器の利用でかすかに聞こえる程度だそうです。
本人が手話出来るかは不明ですが日常会話は手話を使わず口話で聞こえない部分を補っていると思われます。
マウンドでは補聴器のスイッチを切っているそうです。
聞こえない部分は優れた瞬間視で補っているそうです。
耳元での大声は聞こえやすいですがかえって聴力を悪くするので意味がありません。