二代目 和風総本家「奇跡の復活劇!絶滅危機を乗り越えた職人たち」
2019年4月11日(木) 21時00分~21時54分 負債10億円…そんな町工場の危機を救った女性社長がいた。伊藤麻美さん。
貴金属メッキ加工会社「日本電鍍工業」が多額の負債で倒産寸前だった最中、海外で宝飾鑑定士になる予定だった女性が実家が売却されると聞き、帰国。彼女の“ある決断”を機になんと復活を遂げる。
メッキ会社を受け継いだ2代目社長の伊藤麻美日本電鍍工業株式会社社長です。
1956年創業の電気めっき会社、日本電鍍工業株式会社を経営する父親の経済的支援を受けながら、欧米流の教育を受けて育った「お嬢様」だ。
伊藤麻美さんの時代学生の大半は、将来の職業について具体的な目標を持っていなかったそういうバブル全盛期。
伊藤麻美さんが大学生の時先代のメッキの会社の他にも貴金属製品の製造・卸の会社を経営していたお父さんに将来のことを相談しました。
おそらく当時の学生のバブルの就職事情は誰でも就職できたのです。
伊藤麻美さんはたまたま音楽と宝石に興味があったので、父は「宝飾の仕事はいつでもできる、音楽の道に進んだらいい」というアドバイスをうけた。
その後ディスクジョッキーを8年間ほど続けるのですが、そのことにまったく迷いはなかった。
伊藤麻美の経歴
昭和42年(1967年)に生まれ、
インターナショナルスクールから上智大学へと進んだ伊藤麻美さん。
就職難を知らないバブルの時代だった。今しかできないことをするため、好きだった音楽と宝飾のうち音楽を選び、ラジオやテレビ番組のディスクジョッキーとして8年間を過ごす。
その後、生涯続けられる職をと、30歳で宝石の鑑定士や鑑別士の資格を取得するために渡米。1999年、米国California州Carlsbadに留学。
世界的に有名な宝石の学校 GIA にて鑑定士・鑑別士GGを取得。現地での就職もほぼ決まっていた矢先、日本からの一本の電話で人生が激変する。1999年には10億円以上の負債を抱え、会社は倒産寸前であった。
最盛期には年間50億円を売り上げ、何十億もの資産のあった会社は、結果として10億円もの借金を抱えてしまっていた。
20歳で母を、23歳で父を亡くした同氏。六本木の実家には、父の再婚相手である継母が一人で住んでいたが、この家が、父が創業した日本電鍍工業株式会社の名義だった。同社の経営が立ち行かなくなり、「抵当に入っていた自宅の整理に帰れ」、引っ越すために帰ってきてくれという電話だったのだ。
寝耳に水の悪夢のような出来事が熱血漢の血をたぎらせた。取締役の一人として会社に入り、逃げ回る社長を解任して社長に就任したが、「メッキ屋に女の社長は可笑しいだろう」と馬鹿にされながらの悪戦苦闘話は涙なしには聞けない。
しかし若干32歳で代表取締役に就任して以降、3年という短期間で黒字転換を実現した。
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日本電鍍工業株式会社を再建
32歳で事業を継ぎ。
倒産の危機にあった会社を見事に再建した伊藤麻美社長です。
再建のために何を行ったのか?秘訣は?そこには3つの大きな秘訣があった。
①自社従業員に業績を開示
会社は毎月悲しくなるほどの赤字だった。
売り上げや借り入れがどれくらいあるか、業績をすべてオープンにしました。
賭けに出た。従業員の目を覚まさないと!
甘えていた社員も行動が変わって、電気をつけっ放しにしないとか水道を締めるとか、
一つひとつの無駄を省くようになりました。
自ら辞めた社員は3人いたんですけど、あとはみんな踏ん張ってくれた。
②売上構成を変えた
日本電鍍工業は腕時計の部品のめっきが売り上げの9割を占めていた。その仕事がどんどん海外に流れていく中で何の手立ても打たなかったところに、
業績が悪化した一番の要因があったことを認識。
この構成を変え、医療と健康と美容に特化することを選択。
そこにめっきの需要があるかどうか分からないけど、とりあえず営業を開始。
実際そこでいろんな出逢いがあって、
医療器具や女性用アクセサリーのめっき加工など、
時計よりも遥かに高い利益率の仕事が増えた。
③伊藤社長自身メッキ技術は全く分かりませんでしたし、組織経営なんてもってのほか。
プロである税理士さんからも再建は難しいとさじを投げられた。
伊藤麻美社長に再建できる可能性など見えるはずがありませんでした。
でも、見えなかったけれど会社に可能性は感じてはいた。
伊藤麻美社長を信頼し、愛した父。
その父が技術力を信じて情熱を注ぎ、愛した会社なのだから簡単に倒れるはずはないと強く信じていたのです。
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