6月8日(木)徹子の部屋に野上照代さんと仲代達矢さんが出演します。
野上照代さんは映画のスクリプターの仕事を長年続けてきました。
「Script」は英語で台本や脚本のことを意味しますが、「Scripter」という言葉自体は和製英語です。正式には「スクリプト・スーパーバイザー」とも呼ばれています。
スクリプターは映画撮影には欠かせない重要な映画の仕事のひとつです。
簡単に言うならば映画撮影におけ「記録」を管理しているのがこのスクリプターです。
ではそんな野上照代 (スクリプター)の写真や経歴や年齢はの仕事内容を紹介したいと思います。
野上照代の写真
野上照代の経歴
氏名:野上照代(のがみてるよ)
生年月日:1927年5月24日 (90歳)
野上照代さんの生立ちはドイツ文学者、社会思想研究家で戦後神戸大学教授を務めた野上巌(筆名・新島繁)の娘として東京に生まれています。
1943年、都立家政女学校卒業。図書館講習所入学。
1944年、図書館講習所を卒業、山口県山口高等学校図書室に着任。終戦後、東京へ戻る。
1946年、人民新聞社に入社。
1947年、八雲書店に入社。同僚に草柳大蔵、仕事で井伏鱒二と知り合い親交を深めました。
当初は文学に興味があった野上照代さんですが、女学生時代に伊丹万作監督の『赤西蠣太』を観て、ファンレターを書いたのがきっかけで、伊丹家と親しくなり、約1年間、万作の長男伊丹十三と同居し、面倒を見る。1949年の監督の没後、大映京都撮影所で記録係(スクリプター)の見習いとなります。
コレが野上照代のスクリプター人生の始まりでした。
1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプターとして参加。1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加しました。
その間、1966年よりサン・アドにも在籍し、CM制作なども手がけた。1979年、同社を退社。
1984年、自らの少女時代を描いた“父へのレクィエム”が読売ヒューマンドキュメンタリーの優秀賞を受賞。2008年これを『母べえ』として山田洋次監督が映画化しました。
映画『母べえ』のモデルは野上照代さんです。
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映画スクリプターの仕事内容
スクリプターの主な仕事は映画撮影の記録と管理といわれています。が、実際には撮影の記録・管理以外にもたくさんの仕事をしています。
脚本から上映時間を計算したり、衣装合わせや撮影の打ち合わせ、編集・ダビングの立合い、完成台本の作成など、撮影の準備段階から仕上げの段階までたくさんの作業に携わっています。
もそもなぜ映画撮影に記録が必要なのかというと、映画にはミスが付きものだからです。映画は多くのカットを撮影し、それをつなげることによって成り立っていますが、このカットは必ずしも前後のカットと同じ状況、状態で撮られるわけではありません。
その場合前後のつながりがない場合があります。
笑えない話ですが、主人公の髪型が変わってしまっているとかの笑えない話しもあります。
こうなると映画がつながらないのですね。
特に映画は撮影許可や予算など製作上の理由から合理的に撮影が進められるため、そのほとんどがストーリーやシーンの順序とは関係なく撮影が行われます。(要するにストーリーの順番通りには撮られず、順不同に撮れる時にまとめて撮られる)
だからこれがスクリプターの手にかかっているのです。
2番目の仕事としては、また、スクリプターは監督と撮影スタッフの間に入り調整する役も務めています。
例えば監督がどのように考え、どのようなコンテ(演出プラン)を持っているのかそれをいち早く把握し、各スタッフに伝えるのもスクリプターの仕事です。
そして、監督とスタッフの意見がぶつかった際にその間に入り、調整するのもスクリプターの仕事です。(女性のスクリプターが多いのはこういった時に女性の方がスムーズにいきやすいから、という説も…)
監督の考えをスタッフにわかりやすく伝える事によって、現場をスムーズに持っていくのもスクリプターの手腕にかかっています。
こちらの仕事は記録と直接関係ないですが、後に派生的にでてきた業務なのです。
まとめ
野上照代さんは90歳という年齢からもう現役は引退されています。
しかしスクリプターは映画に無くてはならない仕事です。
監督や脚本家ほど目立った仕事ではありません。
しかし映画はスクリプターがいないと作れないのです。
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