11月30日 奇跡体験!アンビリバボー
日本人の海運業者の勝田銀次郎と茅原基治がロシアの約800人の子どもを救った。
なんとその約90年後2011年にオルガ・モルキアというロシア人女性が、2人の墓参りに来ます。勝田銀次郎は1873年、愛媛県松山市で生まれ大学卒業後に海運業の世界に飛び込み、27歳で独立。貿易会社『勝田商会』を設立。海運業界で活躍し成功を収めていました。その後国会議員や神戸市長を歴任しました。
勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年10月1日 – 1952年4月24日)は、日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長(在任:1933年12月21日 – 1941年12月20日)。準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた。愛媛県出身
更に、勝田の会社は物資を運ぶ海運会社だったため、貨物船しかなく800人もの子どもが寝泊まり出来る客船は所有していなかったのです。困った。万事休す。
それでも、勝田銀次郎は子供たちを助けることにします。
勝田銀次郎にとって使命になっていったのです。もはや日本もロシアも関係ない!
困っている人を助けたい。
この社長の決断に反対する者は誰一人いなかったそうです。
そして、会社で一番新しい『陽明丸』を客船に改造。800人もの子供が長期間移動出来るよう洗面所・トイレ・寝る部屋などを増築。通常1年はかかる大掛かりな改造を約1ヶ月という短期間で仕上げました。
その額、現在の価格にして、数千万円。その多くを会社のお金ではなく、私財を投げ打ち、払ったのだそうです。貴方なら出来ますか?
私なら難しいかもしれません!やはりいろんなことを考えてしまいます。
本当に無事に帰ってこれるのか?代金はちゃんと払ってくれるのか?本当にこんなことしても儲かるか?ロシアの子ども(敵国)は喜んでくれるのか?
こんなこと考えだしたらこういう偉業はまず成し遂げられないのです^^
勝田銀次郎社長と茅原基治陽明丸船長
私が現在あるのは祖父母を救ってくれた2人の日本人のおかげだと思ったのです。
ある日本人女性の力を借りて2人の墓を探してもらったそうです。
その日本人の名前は北室南苑さんという人でオルガ・モルキアさんとロシアで出会います。そこで、当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語が日本に伝えられることとなりました。
北室さんは帰国後、オルガさんのために2人の日本人の消息を知ろうと尽力。勝田銀次郎と茅原基治の2人のお墓を突き止めました。なぜ日本でこの美談が伝えられなかったのかといえば、当時の社会情勢日本とロシアはロシア革命の13年ほど前に日露戦争で戦った敵国。
関係がいいわけないでしょう。当時ロシアの子どもを救うことなどしれたら、非国民日本人全てから大バッシングです。おそらく口だけでなく2人には身の危険が迫るでしょう。
だから救出作戦に関わった日本人船員にはかん口令が敷かれたのですね。
さて1918年のロシア革命によりロシア各地は甚大な被害が。
中でもペトログラードでは治安が悪化し深刻な食料不足になりました。
そこで親は子供たちを遠く離れた田舎ウラル地方へ疎開させました。
しかし、避難した田舎町にも戦火が襲い、幼い子供たちは難民のような状態におちいりました。その数、800人
そんな中、米国赤十字が800人の子供たちを保護、ウラジオストクの施設に移送しました。
さらに、《一旦ロシアを離れ、子供たちを故郷のペトログラードに近い安全なヨーロッパの国へ回路で移送し、ロシアの混乱が落ち着いた頃を見計らって親元に返す》という救出作戦をたてたのです。しかしどこの国の海運会社も輸送を引き受けてくれない。
ロシア革命のロシアを相手に船を出そうとする国はなかったのです。社会主義という概念が一般化しておらず、世界の国はロシアに対して強い不信感を抱いていたのです。
命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは、2009年、北室南苑さんという1人の日本人女性とロシアで出会います。そこで、当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語が日本に伝えられることとなりました。
北室さんは帰国後、オルガさんのために2人の日本人の消息を知ろうと尽力。勝田銀次郎と茅原基治の2人のお墓を突き止めました。
2011年、オルガさんは来日し、祖父母の遺志を継ぎ感謝の意を伝えらことが出来たのでした。