東京ブギウギ作詞者「鈴木」が気になる!牛乳瓶の底のメガネは?【ブギウギ】

朝ドラいよいよ佳境にはいりました。

明日2月9日にはブギウギ福来スズコの歌が聞けそうです。
東京ブギウギ

作曲家羽鳥善一(草彅剛)が2月8日野放送ではなった一言・・・・
福来スズコに向かって、できたての譜面をわたして、「鈴木ちゃんって知ってっるだろ。牛乳ビンのようなメガネをかけた彼がすごい歌詞を作ってくれたと興奮ぎみにはなした。」

作詞者鈴木勝さんはどんな人?

学生時代は結構な問題児!

真宗大谷派の小学校を経て、1929年に京都府立京都第三中学校に入学し寮生活を始めるが、素行の悪さに手を焼いた鈴木大拙によって1931年に高野山中学に転校させられるも暴力事件を起こし、停学処分を受けたが、大拙の嘆願書により1934年に卒業し、同志社大学に進学。

同志社大学卒業後はジャパンタイムズを経て1942年に同盟通信社に勤務し、特派員として妻子とともに上海に赴任、終戦により1945年に帰国、英文雑誌の記者のほか、上海で親しくなった服部良一(役名羽鳥善一)の紹介でコロンビアレコードにも出入りしはじめる。

 

1947年に発表された「東京ブギウギ」は、勝のアイデアを元に当時の妻(勝は再婚。1959年離婚)で歌手の池真理子が作詞したとされる。作曲者の服部によると、勝の持ってきた作詞が気に入らず、二人でさらに手直ししたという。

金沢蓄音器館ブログより引用

ただし版権は元妻池真理子が所有していたようです。

牛乳瓶メガネの鈴木さんはドラマに出演する?

 

  • NHKは実名でドラマに出演することはまずない。
  • しかし羽鳥はブギウギドラマ内で「あの面倒くさい鈴木が東京ブギの譜面をわたしたら、10分で作詞した」と言っている。
  • 本名で作詞者鈴木勝のことを牛乳瓶のメガネの鈴木といっているので。作詞者鈴木さんのドラマ出演はおそらくないでしょうね。

東京ブギウギの高齢者向けダンスがある

 

「東京ブギウギ」の誕生背景

「東京ブギウギ」は、日本のポピュラー音楽史において特別な位置を占める楽曲です。この曲が生まれた背景には、戦時下の厳しい時代を生きる人々へのエールと、新たな時代への希望が込められていました。作曲家の服部良一と歌手の笠置シヅ子は、この曲を通じて、戦後の日本に新しい風を吹き込むことに成功しました。

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笠置シヅ子と服部良一の出会い

笠置シヅ子と服部良一の出会いは、日本の音楽シーンにおける重要なマイルストーンとなりました。二人は戦前からの音楽パートナーとして、多くのヒット曲を生み出してきました。服部良一の洗練された作曲技術と、笠置シヅ子の魅力的な歌声が組み合わさることで、彼らの楽曲は幅広い層に受け入れられました。

戦時下の音楽としての役割

「東京ブギウギ」は、戦時下の日本において、人々に希望と楽しみを提供する重要な役割を果たしました。この曲は、厳しい時代背景の中で生きる人々の心を明るく照らし、前向きな気持ちをもたらす力を持っていました。また、戦後の復興期においても、この曲は日本人の心を一つにし、新たなスタートを切る勇気を与えました。

笠置シヅ子:スウィングの女王からブギの女王へ

笠置シヅ子は、戦前から「スウィングの女王」として名を馳せ、日本のジャズシーンにおいて中心的な存在でした。彼女のパフォーマンスは、当時の日本における新しい音楽の波を象徴しており、多くの若者に影響を与えました。笠置の歌声とステージパフォーマンスは、日本の音楽文化に新たな色彩を加え、後の世代のアーティストにも大きな影響を与え続けています。

戦後の音楽シーンでの立ち位置

戦後、笠置シヅ子は「ブギの女王」として再び脚光を浴びます。「東京ブギウギ」のヒットにより、彼女のキャリアは新たな高みに達しました。この曲は、戦後の日本人にとっての新しい生活の象徴となり、笠置シヅ子の名前はこの楽曲とともに不朽のものとなりました。彼女の音楽は、戦後の復興を象徴するものとして、今日まで多くの人々に愛され続けています。

服部良一:中央線の振動音からインスピレーションを得て

服部良一は、日本の音楽史において重要な役割を果たした作曲家です。彼の代表作「東京ブギウギ」のインスピレーションは、意外にも日常の中にありました。中央線の電車が走る際の振動音が、この楽曲のリズムの基盤となりました。服部は、この振動音を聞きながら、戦後の日本に新しい活力をもたらす楽曲を作ることを決意しました。

「東京ブギウギ」の作曲過程

「東京ブギウギ」の作曲過程は、服部良一の音楽に対する深い洞察と、時代のニーズを捉える独特の感性が反映されています。服部は、戦後の日本人が必要としていたのは、明るく前向きなメッセージを伝える楽曲だと感じていました。そこで、アメリカのブギウギ音楽に影響を受けつつ、日本独自の文化的背景を融合させることで、この時代を象徴する楽曲を完成させました。

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笠置シヅ子への楽曲提供の背景

服部良一が「東京ブギウギ」を笠置シヅ子に提供した背景には、彼女の歌声が持つ独特の魅力への信頼がありました。笠置シヅ子は、戦前から「スウィングの女王」として活躍しており、その圧倒的な歌唱力とステージパフォーマンスで多くのファンを魅了していました。服部は、笠置の歌声を通じて「東京ブギウギ」が持つ明るさと希望のメッセージを最大限に伝えることができると確信していました。

「東京ブギウギ」が描く戦後日本

「東京ブギウギ」は、戦後の焼け跡から立ち上がろうとする日本人に向けた強いメッセージを持っています。この楽曲は、復興への道のりにある困難を乗り越え、明るい未来へと進む勇気を与えました。服部良一と笠置シヅ子は、音楽を通じて戦後の日本に希望の光を灯すことに成功しました。

当時の社会状況と受容

「東京ブギウギ」がリリースされた当時、日本は戦争の傷跡を癒やし、新たなスタートを切ろうとしている時期でした。この楽曲は、そんな時代の空気を捉え、多くの人々に受け入れられました。その明るく軽快なリズムは、人々の心を一つにし、戦後の復興期における日本のポピュラー音楽の新たな方向性を示しました。

笠置シヅ子の記憶と「東京ブギウギ」

笠置シヅ子の死去時の新聞記事から見る影響

笠置シヅ子の死去時、多くの新聞は彼女を「ブギの女王」として讃え、彼女の音楽が戦後の日本に与えた影響を強調しました。新聞記事は、彼女の楽曲がいかにして国民の心を捉え、暗い時代を明るく照らしたかを伝えています。

特に「東京ブギウギ」は、焼け跡からの復興を象徴する曲として、彼女の遺産の中でも特に際立っています。

「ブギの女王」としての彼女の遺産

笠置シヅ子は、「ブギの女王」としての地位を確立し、日本の音楽史において不朽の名声を得ました。

彼女の遺産は、その歌声とパフォーマンスに限らず、戦後日本の文化と社会に対する深い影響にも及びます。彼女の音楽は、時代を超えて多くの人々に愛され続けています。

「東京ブギウギ」の音楽的特徴と影響

スウィングからブギウギへの移行

「東京ブギウギ」は、スウィング音楽からブギウギへの移行を象徴する曲です。この楽曲は、戦後の新しい時代の始まりを告げ、日本のポピュラー音楽に新たなリズムと活力をもたらしました。

服部良一の革新的な作曲技術と笠置シヅ子の魅力的な歌声が融合し、独特の音楽スタイルを生み出しました。

日本のポピュラー音楽における位置づけ

「東京ブギウギ」は、日本のポピュラー音楽における重要なマイルストーンとなりました。

この楽曲は、戦後の日本人に希望と楽観主義をもたらし、国民的な人気を博しました。また、日本独自のポピュラー音楽の発展に大きく貢献し、後の世代のミュージシャンにも影響を与え続けています。

終戦後の笠置シヅ子と服部良一

東宝系劇場での活躍

終戦後、笠置シヅ子と服部良一は、東宝系劇場を中心に活躍しました。彼らの公演は、戦後のエンターテインメント業界において大きな注目を集め、多くの観客を魅了しました。

特に「東京ブギウギ」のパフォーマンスは、彼らの代表作として高く評価されています。

戦後のエンターテインメント業界での役割

笠置シヅ子と服部良一は、戦後のエンターテインメント業界において重要な役割を果たしました。彼らの音楽は、戦後の日本社会に新しい風を吹き込み、人々に夢と希望を与えました。

彼らの活躍は、戦後の日本のポピュラー音楽とエンターテインメントの発展に大きく貢献しました。

「東京ブギウギ」がもたらしたもの

日本人の心に残る名曲としての地位

「東京ブギウギ」は、そのキャッチーなメロディと前向きなメッセージで、日本人の心に深く刻まれています。この楽曲は、時代を超えて愛され続ける名曲としての地位を確立しました。

まとめ:時代を超えた楽曲としての魅力

「東京ブギウギ」の魅力は、その時代を超えた普遍性にあります。この楽曲は、戦後の復興を象徴するだけでなく、常に新鮮さを保ち続けることで、今日でも多くの人々に愛されています。

笠置シヅ子と服部良一の遺産は、この楽曲を通じて、未来の世代にも受け継がれていくことでしょう。

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