雲仙・普賢岳で指揮 元島原市長・鐘ケ江管一氏が出演
【鐘ケ江管一氏の日常は】
鐘ケ江管一氏
1/29日(金)TBS1爆報!THE フライデー 19:00~19:56 放映
長崎雲仙普賢岳の大噴火火砕流被害時の
元島原市長です。
ご存知立派なあごひげで有名なかたでした。今はどういう容貌になっているのか。
実は下の記事は2014年10月19日 日刊ゲンダイの記事です。
この27cmに延びた立派なあごひげ、これが付け髭だった?いいえ市長在籍時は本当のひげ。退任後は付け髭らしいです。 1/29の放送でカミングアウトされるそうです。何のための付け髭か。もしそうなら何のためか。意味がよくわかりません。
トレードマークとなったヒゲは92年12月17日、市長を退任するまで剃らなかった。「大火砕流の日から565日間で全長27センチになってました」
その後は全国各地で防災講演や島原市を訪れる学生に研修講演を行ってきた。「1000回は超えたと思います。私の体験が防災に役立つならば、元気なうちはどこにでも行ってお話ししますよ」
【普賢岳噴火火砕流被害】
火砕流による犠牲者は43名、マスコミが取材のために無理をして危険区域に侵入し、その救助のため
消防関係者や警察関係者が犠牲になったという説があります。ただしこれについてもマスコミ性悪説だけでなく地震予知の限界(当時)と言えるのかもしれないです。
地震予知がもう少し早く正確ならあれほどの惨事にならずに済んだのかもしれません。
また島原市長は日本で最初に災害対策基本法63条に基づく警戒区域を設定することに躊躇はあったのでしょう。警戒区域の設定が発生してから即日の設定ではなく、4日後だったことが
それを物語っています。火山学者が正しい知識を元に市長を説得していたならば
被害はゼロに出来たという意見もあります。
何が正しかったか今となっては、当時の選択が正しかったのかも断罪はできません。
スポンサーリンク
毎日新聞1998年3月11日
<ひと> 九大島原地震火山観測所長 太田 一也さん
1990年11月17日、198年ぶりに噴火した長崎県雲仙・普賢岳。来月26日 、7年5カ月ぶりに登山が解禁されることになったが、噴火活動の終息に歩を合わせる ように観測所長の定年を迎えた。
忘れられないのは91年6月3日の大火砕流。住民や報道関係者ら43人の命を奪っ た。自衛隊ヘリコプターから見た被災地は「緑の木々はなぎ倒され、火山灰でまっ白。 まさに地獄……」。今も悪夢が脳裏によみがえる。
67年、九大助手として同県島原市の「島原火山温泉研究所」(現・観測所)に赴任 。火山構造の分析と観光開発のため温泉と火山ガス調査にあたった。が、“噴火しない 火山”に満足できず、桜島や阿蘇山の観測にも参加した。
それだけに「自分が研究してきた火山が『やっと、噴いた』と思った」と、研究者と して当初抱いた率直な胸の内を語る。しかし、火砕流や土石流で島原市と深江町で約2 500棟に被害が出、避難住民も1万人を超える大災害に。仕事は研究より防災対策が 主となり、ヘリによる上空観察は900回に及んだ。
自治体が設定する立ち入り禁止区域は可能な限り広範囲を主張した。「二度と犠牲者 を出してはいけない」との思いからだ。このため避難生活の長期化や防災工事のために 区域縮小を求める行政側と激しく対立することもあった。
「火砕流を予測できなかったとの批判も受けましたが、災害での危機管理の実態を書 き残し、将来への教訓にしたい」 島原半島の国見町出身。退官後も地元に残り、普賢岳の“災害史”をまとめる。
【島原支局・中尾 祐児】
まとめ
いまも元市長は災害防止の公演にに全国を飛び回っておられると聞きます。それは当事者としての責任感や義務感が強いのだと思います。
災害がない世の中になればいいのですが、自然災害は自然が相手火山噴火予知も難しいことですね。
スポンサーリンク