加藤登紀子さんが
11月22日徹子の部屋の
ゲストです。
加藤登紀子さん歌手としての
経歴は長いですね。
ご主人は藤本敏夫さん
大学時代には学生運動の闘士
2002年に他界されました。
ヒット曲も多数あります。
知床旅情
百万本のバラ
加藤登紀子さんの父が
京都で経営されていたロシアレストラン
『キエフ』のことも紹介します。
加藤登紀子の経歴
生誕 1943年12月27日(72歳)
出身地 :満州国の旗 満州国・ハルビン市
学歴: 東京大学文学部西洋史学科卒業
ジャンル :シャンソン
歌謡曲
ポップス
ニューウェーブ
ロック
フォークソング
活動期間: 1966年 – 現在
レーベル ポリドール・レコード(1966年~1987年)
ソニー・ミュージックレコーズ(1988年~1998年)
ユニバーサルミュージック(1998年~現在)
事務所 トキコ・プランニング
共同作業者 告井延隆
センチメンタル・シティ・ロマンス
武川雅寛
加藤登紀子の生い立ちと夫藤本敏夫との出会い
獄中結婚した夫と死別してから13年。
現在、「おひとりさま」の加藤登紀子(71才)は
100才の実母・淑子さんと同じマンションに暮らし
介護に励む日々を送っている。
彼女が歌手として、そしてひとりの女性として、
困難に負けずにずっと走り続けてこられたのは、
その母の支えがあったからだ。
歌手デビュー50周年という節目を迎えた彼女に
厳しくも輝かしい半生を振り返ってもらった。
加藤は1943年12月27日、
旧満州(現在の中国東北部)
ハルビンで満鉄社員の父と洋裁の得意な
母の間に末っ子として生まれた。
淑子さんは誰とでも真摯に向き合う女性だった。
終戦直後、ソ連軍が満州で略奪行為を
していたことがあったという。
「ソ連軍が怖くて日本人が逃げる中、
母はひとりソ連軍の司令部に
乗り込んでいきました。
そして『こんな乱暴を働いているのはおかしい』と
訴えたそうです。
司令部は母の進言を受け入れて
略奪行為を取り締まりました。
母は、どんなときでもきちんと
相手と向き合う強さを教えてくれました」
まもなくして一家は日本に引き揚げた。
淑子さんは洋裁店で働き家計を支えた。
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数年後に加藤の父が突然、
ロシア料理店をオープンさせると、
その店を手伝うようになった。
加藤が当時を振り返る。
「母はデザイナーになって自分の
洋裁店を持ちたかった。
でもその夢は家族のために
捨てざるを得なかった。
そこに複雑な思いがあったのでしょう。
父に翻弄された人生だったからこそ、
そうした言葉を私に伝えたんだと思います」
母のその言葉通り、加藤は自分らしく生きた。
都立駒場高校からストレートで東京大学に進学。
加藤登紀子は優秀であった。
東大在学中の1966年に『誰も誰も知らない』で
歌手デビューを果たした。
現役東大生の歌手デビューはこの
時代の芸能界では、衝撃的だった。
一方、その頃全国各地で
大学紛争が激しさを極めていた。
加藤は、反帝全学連副委員長だった
藤本敏夫さん(享年58)と出会い、
交際をスタートさせた。
出会いのキッカケは藤本敏夫が
政治集会で
コンサートの企画をし加藤登紀子に
コンサート出演のオファーをしたのが
キッカケ、加藤登紀子は音楽が政治利用
されるのが嫌で、オファーを断った。
しかし藤本敏夫との付き合いは
続けていたのです。
学生運動が激化していくにつれ、
警察は藤本さんへのマークを厳しくしていった。
結局、藤本さんは1972年4月、
公務執行妨害などの罪で逮捕、
懲役3年8か月の実刑を言い渡されたのです。
幾多の学生を煽動した罪を被ったもので
比較的重い量刑でした。
藤本敏夫は中野刑務所に収監されました。
周囲が交際に反対する中、
淑子さんだけは違った。
悩む加藤登紀子にこんな言葉をかけました。
「あの人は、あんたのお守りさんや
から交際を続けなさい」
淑子さんの言葉が後押しとなり、
ふたりは獄中結婚。
この話題はその当時センセーショナル
に報道された。人気歌手が獄中にいる
犯罪者と結婚を発表したのだから。
それは大変な騒ぎでした。
ましてや加藤登紀子は妊娠しているという
おまけ付きです。
加藤は長女を妊娠していた。
1974年に藤本敏夫さんが出所すると、
加藤は次女、三女を出産し、
3人の子供に恵まれた。
その後は母と歌手という二足のわらじを
両立させるため奮闘した。
どうにもならないほど忙しい時、
家事・育児を手伝ってくれたのは
やはり淑子さんだった。
頼りになるのは実家の母です。
これは定番です。
生活が落ち着き始めると、
藤本さんは食と農をテーマにした活動を始め、
多目的農園『鴨川自然王国』
(千葉県鴨川市)を1981年に設立した。
全学連の活動から農業に傾注
これは当時の左翼の定番でもありました。
歌手の岡林信康や
高石友也さんなども同じような
生活を送っていました。
「東京から千葉に家族全員で
移り住む予定でしたが、
私が子供の世話をして東京に戻って
仕事をするという二重生活は現実的に厳しかった。
彼を説得して離れて暮らすことを選択しました。
彼は鴨川、私と子供は東京。
離ればなれに暮らすことで家族の
絆はより深まったと思います」
加藤が「別居」を選んだことも
「自分のやりたい道を選びなさい」
という淑子さんの教えが
あったからに違いない。
幸せな結婚生活を送っていたふたりだったが、
藤本さんは肝臓がんを患い、
闘病の末2002年に亡くなってしまった。
「好きなように生きたい者同士が
一緒にいたんだと思います。
そうしたスタイルでもうまく
結婚生活を続ける方法を探した。
そんな夫婦だったと思います」
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レストランキエフの話
創業者の加藤登紀子の亡父加藤幸四郎は、
旧満洲(今の中国東北部)のハルビンで
青春時代を過ごして、ロシア語を学び、
ロシア文化に親しみました。
当時のハルビンには沢山のロシア人や
ウクライナ人が住んでいたからです。
父が郷里の京都に店を創業した1972年に、
京都市とウクライナの
キエフ市が姉妹都市となりました。
この二つの都市は共に、
元々首都が置かれたことがあり、
古い歴史にはぐくまれた、緑豊かな町だからです。
京都市の薦めもあって
「キエフ」と名づけたのです。
管理人は昔京都ぎおんの『キエフ』で食事したことが
あります。ボルシチやジャムティー
田舎ものなので初めてでした。
また無知だったので、これが加藤登紀子
の店だと思い込んでいました。
実際友人からそのように聞いていました。
昨日色々調べてみたら、加藤登紀子の
お兄さんがオーナーのようです。
加藤登紀子は経営にタッチしていないと。
ホームページでは加藤登紀子の
コンサートがキエフで開かれているようです。
第48回コンサート受付中
第48回
ご予約受付中
■日時
2017年 4月1日(土)
昼の部 開場12:00~ ライブ12:30~
夜の部 開場17:00~ ライブ17:30~
■会費 18,000円(特選コース料理・グラスワイン・税サ込)
■定員 70名(先着順)
■お問い合わせ メールまたは、お電話で 075-525-0860
■お申し込みの流れ 電話またはメールにてご予約
1、事前にお振込み
2、チケットお届け
3、お申し込み完了
■振込先 三井住友銀行 四条支店
普通 0842630 株式会社 キエフ
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