障害児福祉施設「ねむの木学園」の園長で歌手の宮城まり子(みやぎ・まりこ、本名本目真理子=ほんめ・まりこ)さんが2020年3月21日、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去した。93歳だった。大田区出身。自宅は世田谷区。葬儀は27日に学園内で子供と職員のみで行う。28日以降、学園内で献花を受け付ける予定。
宮城まり子の今現在晩年
パートナーである作家の吉行淳之介さんと3つの約束をした。1つは愚痴をこぼさないこと、2つ目はお金がないと言わないこと、3つ目はやめないことでした。亡くなった後も、その約束は続いているのだが。
「厳しいね。そのときは、厳しい優しさと思わなかったの。ああ、淳ちゃんの許可をもらってうれしいと。でも、やめるというのは死ぬことでもあるでしょ? 死んじゃいけないんでしょ? でも、いいかげん年をとった。百歳になっても夢見る人であり続けるみたいで、体がついていかないから、今つらい」
「分かんない。私が死んだら」
引き継ぐ人がいれば続くのではないですか。
ねむの木学園を引き継ぐ人
「見つかったらいいね。欲しいね」
これまでねむの木に勤めた職員のなかに、後継者は。
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「定年になったら辞めていくからね。なかには自分で学校つくったり園長になったりしている人もいるよ。この前の運動会のときも、たくさん来たよ。『おーい、元気かよっ』て言うと、『元気です』『ありがとうございました』って。(自分のところの)子供をみてほしいという話が一番多いかな」
50年続けてきた達成感は?
「私なんかがこんなことしてよかったのかしら、これでよかったのかしらと、いつも思っています。それを生意気にしゃべっていることも、これでいいのかと思っています。今になって、恐れ多く感じます。こんな思い上がり」
宮城まり子さんはガード下の靴磨きでいっせいを風靡した歌手。
吉本興業に所属していたことは以外に知られていない。
宮城まり子と吉本興業が結びつかないのですが。とにかく吉本興業に所属していました。
東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区)に2人姉弟の姉として生まれ、幼くして母と死別するつらい少女時代を送った。父親の仕事の関係で、小学校3年から大阪で育つ。
小学校5年の時、父親が事業で失敗、母親が病死する。そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになった。戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で17歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台を踏む。
1955年には、後のレコード大賞作詞家・宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。その後も『納豆うりの唄』『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発。
1958年、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』で声優を務める。その後、女優業に進出し、1958年、『12月のあいつ』で芸術祭賞、1959年、『まり子自叙伝』でテアトロン賞を受賞。
舞台で脳性まひの子供を演じたのをきっかけに、68年に静岡県浜岡町(現御前崎市)に肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立し、園長に就任した。
79年「ねむの木養護学校」を開設。小中学部と高等部で絵画やダンスなど障害児の感性発達を重視した教育に取り組んだ。97年掛川市に全面移転し、福祉の里「ねむの木村」をつくった。
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宮城まり子のプロフィール
宮城まり子
1927年3月生まれ。55年、「ガード下の靴みがき」で歌手デビュー。その後、女優としてミュージカルの舞台に立つ一方、映画やテレビ・ラジオにも多数出演。68年に日本初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立。
79年、肢体不自由児のための特別支援学校「ねむの木学校」を開校。子供たちが描いた絵の展覧会やコンサートを開くほか、「ねむの木の詩がきこえる」(77年)など4本の映画を製作・監督し、国内外で高い評価を得る。作家の故・吉行淳之介氏のパートナーとしても知られる。