こんにちは。
くまのすけです。
元中日ドラゴンズ
の兄弟選手兄弟で同じ球団
に属した仁村兄弟の兄
仁村薫さんが
爆報!THE フライデー【あの人は今…大追跡SP】
2016年11月25日(金) 19時00分~19時56分
にVTR出演します。
仁村薫の今現在
退団後実家の養豚業を
引き継いでいます。
仁村薫の実家は埼玉県川越市で
江戸時代から約400年続く養豚業を
営んでいるらしいが、
赤字続きで経営が厳しいよう。
理由は餌代の高騰
海外産豚肉が安い
豚肉価格をあげると
海外製品に価格競争で負ける等
の理由があるようです。
川越市は人口が34万人の都市です。
これは管理人の想像に過ぎませんが、
こういう人口の多い都市で畜産業を営む
のはおそらく苦労が多いでしょう。
周辺住宅地への悪臭なども問題になりがちです。
仁村薫の経歴
氏名:仁村 薫(にむら かおる)
生年月日:1959年5月9日 (57歳)
埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(外野手)
弟は自身と同じ元プロ野球選手の仁村徹で、
現役時代は中日で一緒にプレーした経験がある
(当時はスコアボードなどには「仁村兄(=薫)」
「仁村弟(=徹)」と表記されていました)。
川越商業高校ではエース投手だったが、
甲子園出場経験なし。
高校卒業後は早稲田大学へ進学
3年時からエース投手としてリーグ通算36試合登板し
17勝10敗、防御率1.57、163奪三振。
4年時には第10回日米大学野球選手権大会の
代表に選ばれ1勝を挙げたほか、
打力を買った島岡吉郎代表監督が代打に起用、
ホームランを放った。
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【ジャイアンツドラフト入団時は投手】
1981年のドラフト6位で読売ジャイアンツ(巨人)に
投手として入団し、3年目で外野手に転向。
主に中堅手として活躍。
【1988年中日ドラゴンズリーグ優勝に兄弟で貢献】
1987年のオフに自由契約となり、
弟・徹が在籍する中日ドラゴンズへ移籍。
翌1988年は弟と共に二軍スタートだったが、
一軍に昇格するや否や代打や守備固め、
左投手が先発のときのスタメンなどで活躍し、
弟と共に同年のリーグ優勝に貢献しました。
【仁村徹通算成績】
通算実働7年
396試合 打席432 打数394
得点52 安打91 二塁打9 三塁打3 本塁打15
塁打151 打数60 盗塁5 盗塁死3 犠打15
犠飛4 四球16 敬遠2 死球3 三振87 併殺7 生涯打率231
仁村薫乱闘事件
1987年(昭62)6月11日
巨人×中日戦
正確には巨人ウォレン・クロマティーが
中日投手宮下昌巳に投球に激怒乱闘になった事件
【巨人5-1中日】年に1回の熊本・藤崎台球場での巨人戦。
ジャイアンツ4点リードで淡々と進んだ試合が“急変”した。
7回裏二死二塁、巨人のウォーレン・クロマティ中堅手の初球、
中日・宮下昌巳投手の内角ストレートがヘルメットを直撃した。
血相を変えたクロマティが指を下に向け
「頭を下げろ!」と大声で叫びながら、宮下に近づいた。
あまりの剣幕にまだ若手だった中村武志捕手も
止めることができない。宮下にも謝る素振りはなし。
背番号49は走塁でも見せたことがないほどの
猛ダッシュでマウンドに突進した。
間髪入れずクロマティの右パンチが宮下の顔面に命中。
マウンド上に崩れ落ちた。それを合図のようにして、
一塁側巨人ベンチから仁村薫外野手、三塁側中日ベンチから
岩本好広内野手のそれぞれ“切り込み隊長”を先頭に両軍が激しく激突。
この事件により仁村薫選手は巨人軍乱闘要員
の第一人者に登りつめることに。
乱闘にありがちなまったく関係のない選手やコーチがつかみ合う、
メチャクチャな状態になった。
番長清原和博が巨人軍に入る前のことでした。
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