消えた天才★福原愛が最も恐れた天敵&高校サッカー悲劇の天才SP★
2019年6月30日(日) 20時00分~20時54分 TBS系列で放送
”レアル久保以上に観客をわかせた天才は18歳で消えた…天才を襲った悲劇とは?”
羽中田昌(元サッカー選手)が出演します。
しかもその選手は、途中出場でわずか25分だけのプレーだったにもかかわらず、国立競技場が揺れるほどの大歓声を呼び起こし、全国のサッカーファンに忘れられない強烈な印象を残した。
なぜ途中出場なのかこれには深いわけがあったのです。彼が当時わずらっていた病気のせいなのでした。
FWとして全国高校サッカー2年連続準優勝に貢献した凄い選手だった。
将来を嘱望されていたが、浪人中のバイク事故で脊髄損傷により下半身不随となり、
サッカー選手としてのキャリアに終止符をうった。高校
それからはずっと車椅子生活。
ヴァンフォーレ甲府の試合でみかけることもあります。
Wとして全国高校サッカー2年連続準優勝に貢献した凄い選手だったそうな。
羽中田昌のプロフィール
【名前】 羽中田 昌 (はちゅうだ まさし)
【生年月日】 1964年7月19日
【年齢】 54歳 (2019年6月現在)
【出身地】 山梨県甲府市
1964年、山梨県甲府市出身。83年山梨県立韮崎高校時代に高校選手権で活躍。高校選抜に選ばれるなど将来を嘱望されていたが、バイク事故で脊髄を損傷。車椅子の生活を余儀なくされる。9年間の山梨県庁勤務を経てスペイン・バルセロナに5年間の指導者留学。
帰国後は暁星高校と韮崎高校でコーチ。2008~9年にカマタマーレ讃岐、12年奈良クラブで監督を歴任。サッカー解説者、講演、執筆業など幅広く活動。
06年JFA公認S級ライセンスを取得。著書に『夢からはじまる』(集英社) 『バルセロナが最強なのは必然である・グアルディオラが受け継いだ戦術フィロソフィー』(翻訳、カンゼン)などがある。
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羽中田昌がサッカーを始めたきっかけ
羽中田昌さんがサッカーを始めたのは、小学3年生の時でした。
お兄さんがやっていたのと、同級生のお父さんが監督をしていたことから、サッカーをすることになったそうです。男の子は兄にあこがれます。
始めはボールを追いかけるのが楽しいくらいでやっていたそうですが、小学4年生の時74年の西ドイツW杯でオランダ代表のヨハン・クライフ選手を見て衝撃を受け憧れるよこんなことができるのかと夢を与えてもらった。あの頃あこがれていた少年は多かった。
今まで自分が知っていたサッカーとは別次元のものがテレビの中で展開されていて、ヨハン・クライフ選手のプレイはもうこの世のものとは思えなかった。
甲府市立春日小学校5年生の時に、湯田少年団で全国サッカー少年団大会に出場。
翌年も同大会に出場し、2年連続で優秀選手に選ばれ全国的で名の知れた選手になります。
中学時代は、地元の甲府市立西中学校へ進学しますが、全国中学校サッカー大会の予選を兼ねた最後の大会で、ライバルの保坂孝選手が率いる韮崎市立韮崎東中学校に敗れてしまい、全国大会出場できませんでした
高校は、山梨県立韮崎高等学校に進学。
後に中田英寿も入学する山梨の名門校です。
甲府市在住の羽中田昌さんが、越境通学(当時の甲府市は総合選抜制度であった)となる韮崎高校へ進学したのは、ライバルの保坂孝選手から誘われたからだそうです。
第59回全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4。
第60回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝に貢献し優秀選手に選出。
順風満帆のサッカー人生。
この時、一学年上の大柴剛選手、保坂孝選手と共にH2Oトリオとしてら注目されました。
ですが韮崎高校入学後、サッカーを辞める覚悟もしたそうです。
韮崎高校入学後は、後に日本ユース代表となるフォワード・保坂孝と共に、1年時に全国3位、2年時に全国2位となるチームの中核を担うのだが、この間、万全な状態でプレーできたことは一度もなかった。
1年のインターハイでは貧血を患い、高校選手権では、直前の練習試合で足首を負傷し、痛み止めの注射をうちながらプレーした(大会後の検査で骨折していたことがわかる)。
2年のときは、高校選手権の県予選突破後の練習で、右足の付け根に痛みを感じて病院に行くと、股関節の剥離骨折だと診断される。
本大会では、再び痛み止めの注射をうってプレーしていた。
満身創痍
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1982年3月の高校選抜のヨーロッパ遠征直前に腎臓病を患い、3ヶ月の入院生活の後も運動を禁じられてしまいます。
そして決勝の清水東高校戦で後半10分過ぎ、清水東が3点をリードしている状況で、韮崎のミッドフィルダー羽中田昌選手が登場!!
鋭いドリブル突破でスタンドをわかせました!!
3年生の国立の決勝、試合は20分くらいしか出られなかった。が、その後事故をしてしまうので、プレーヤーとしてのこれが最後の試合。こてんぱんに負けました。
羽中田昌の高校卒業後から今現在は?
今現在韮崎市で奥さんのまゆみさんと2人暮らし
羽中田昌さんは将来的にヨーロッパでプロとしてプレーする夢を持っていたので、高校卒業後はサッカー推薦での大学進学や企業からの誘いも断り、一般入試で受験をしようと浪人することにしたのです。
高校選手権から8か月後の夏、羽中田昌さんに突然の悲劇。
友人宅からスクーターに乗って自宅に帰宅途中突然前輪がパンク、体が飛ばされて地面に激しくたたきつけられ救急搬送されます。医師からはもう歩けるようになれないという宣告が。
診断は脊髄損傷による下半身不随。もう彼にはサッカーは出来なくなった。
ですが、猛勉強し1986年から9年間山梨県庁に勤めます。
1993年のJリーグ開幕でかつて高校サッカーで戦った選手たちが脚光を浴びるのに触発され、サッカー指導者への道を志し、1995年県庁を退職して、スペイン・バルセロナに留学します。
2000年、帰国してからはテレビでサッカー解説をしながら、暁星高校サッカー部でコーチを務めます。
2006年、Jリーグの監督も務められるS級の指導者ライセンスを取得。
現在は、テレビ番組でサッカー中継やコラム執筆などをされています。
今考えると高校サッカーで優勝したかったですけれど、準優勝で終わって、その悔いみたいなものがもう1回サッカーに戻ろう、羽中田昌さんが監督になろうといったところに繋がったのかも知れないですね。
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