ビートたけしのTVタックル
2019年5月26日(日) 11時55分~12時55分 テレビ朝日系列
白虎隊5代目墓守 飯森尚子さんが出演
戊辰戦争に参加した白虎隊が悲劇の最期を迎えた飯盛山。
御朱印授与を巡って騒動が起こっている。
白虎隊の墓があり、現在は多くの観光客が訪れるこの山で、土産物店に掲示された1枚の紙がTwitterで話題になっている。書かれているのは、この店で「白虎隊御朱印」を書き、販売してきた白虎隊墓守家の5代目、飯盛尚子さんのメッセージ。
御朱印について「当分、書く気持ちにはなれません」と観光客の前で書き上げるサービスを取り止めることを知らせる内容。
ただしあらかじめ書貯めた御朱印を渡すことは可能。
墓守でもあり書家でもある飯盛さんが、客の持参した御朱印帳に直接記入するサービスを提供していた。しかし順番待ちの人から「一人に何分かけているんだ」とか「手際が悪い」などのクレームが寄せられるようになったという。確かに待つほうから言えば、早く済むのに越したことはないが・・・
大体観光地の大型社寺では1枚の御朱印にかける時間が短い。
しかし1枚の御朱印時間をかけて書き上げるのが飯盛山の飯森尚子さんのやり方だからそれに習う他はないのです。
郷に入れば郷に従えです。もう完全にスタンプラリーと混同されているふしがあります。
もっと厳かな気持ちで、まず参拝ありきですから。そこからやり直したラどうですかね。
私はたとえ御朱印がスタンプラリーとして扱われようとも、ブームに乗っかった寺社がキラキラした御朱印を出そうとも、それはそれで良いと思う。神様とのご縁以前に、人と人とのご縁じゃないか。どうして、相手がある事柄に、こんなことを言えるのか。言われた気持ちがわからないんだろうか。 https://t.co/OZswPYO647
— テングサ科@アンチパクチー® (@harue0semel) 2019年3月29日
スポンサーリンク
飯盛分店のアクセス
店名: 飯盛分店
住所 :〒965-0003 福島県会津若松市一箕町飯盛山上
電話番号: 0242-22-5818 / 0242-22-1082(夜間)
FAX 0242-22-1166
アクセス
<お車での来所>
磐越自動車道会津若松ICより約15分、会津藩校日新館より約20分、鶴ヶ城より約10分、会津武家屋敷より約5分、東山温泉より約8分、芦ノ牧温泉より約25分、磐梯熱海温泉より約40分、猪苗代より約30分、裏磐梯高原より約50分、喜多方より約40分、大内宿より約50分、
飯盛分店は、代々白虎隊の墓守をしていた飯盛家の女性が、墓守をしながら茶屋をしていたことに始まり、創業昭和3年(1928年)から続く、飯盛山では最も古いお店。
飯盛山白虎隊墳墓のすぐ下にあり、鶴ヶ城・会津平野を一望出来る高台に位置し、【飯盛山のふもとには大型駐車場(2ヶ所)】・お店には【売店】・【お食事処】・【眺めの良い展望台】があります。
御朱印の説明にはこうあるのですが!
飯盛山参道の記念に御朱印をお書きしております。御朱印帳も取り揃えております。御朱印は資料館の中でお書きしております。
飯盛分店での白虎隊御朱印の由来飯盛分店での御朱印の始まりは、藩主松平容保に頼まれた当時の白虎隊墓守が書いたのに始まり、白虎隊御朱印では一番古く、唯一容保公の一言で始まったもの。
従って、当店では白虎隊墓守以外の直接記入は致しません。
そして、代々収益は全額養護施設や福祉震災等へ寄付しております。 現在は五代目飯盛尚子が記入。
残念ながらこのサービスは停止してしまった。
理由は前述のこころないお客の言葉です。
スポンサーリンク
せっかく来られたのならあの幕末の白虎隊の悲話を思い出しながらお墓参りをぜひ
慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥をさとり、3月10日、改めて軍隊の編成替えをおこないました。
そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとに、『玄武隊』『青龍隊』『朱雀隊』『白虎隊』の4隊でした。それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって、『士中』『寄合』『足軽』の3隊に分けられ、白虎隊は総勢343名(現在の推定)でした。
そのうち戸の口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした。そしてその中の17名は無事に入城しましたが、20名は飯盛山で自刃をされ、1人蘇生された飯沼少年を除いた19士の墓となります。
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ(埋葬禁止令』埋葬の許可がされませんでした。
風雨に晒される少年たちの遺体は、衣服遺留品は盗賊に盗られ、動物に食べられ酷い状態でした。不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました。
しかし、このことが西軍にわかり、正信爺は伊惣次と共に処罰され、その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました。
明治2年になって、ようやくこの飯盛山中腹に合葬が許され、私ども飯盛一族は『一個人の私有地にお眠りなられるのは、さぞかし肩身の狭い思いをされるだろう。
ならば、この山をお殿様に献上すれば、永遠にお殿様の傍で安らかに眠れるであろう。』と、土地三半歩を旧藩主に献納し、妙国寺の数体の遺体と共にこの飯盛山に白虎隊墓地が新設されたことで、『飯盛山は、わしが守る。』と、初代『飯盛キン』が慰霊を尽くしてから、二代目、三代目と継承し、現在で五代目となりました。
スポンサーリンク