前田勝宏の今現在戦績や最高年収は?野茂2世と呼ばれた過去


ニチファミ!・特捜!激撮!張り込みマネースコープ

【元阪神・井川は今…年収0?】

2018年7月22日(日)  19時57分~21時54分
フジテレビ系列で放送

 

 

いきなり冒頭で元阪神タイガースの
井川選手が年収0円とショッキングな
見出が踊っています。が、今回は
元西武ライオンズのドラフト2位投手

前田勝宏さんを取り上げます。

前田勝宏投手の今現在は神戸弘陵高校の
コーチを務めています。

スポーツデポ学園南店勤務の傍ら
男子硬式野球部の
技術指導をしています。

出身 神戸市 ポジション 投手
現在 スポーツデポ学園南インター店
ベースボールアドバイザー

経歴 神戸弘陵学園高校
第71回全国選手権大会、
第44回はまなす国体

プリンスホテルからドラフト2位
西武ライオンズに入団
ニューヨークヤンキース、台湾、
イタリア、中国、社会人野球
関西独立リーグにてプレーしました。

アマチュアから西武時代

神戸弘陵学園高等学校からプリンスホテル硬式野球部を経て、
1992年のドラフト2位で西武ライオンズに入団。

ストレートがめっぽう速かった。
150km/hを超えるストレートを武器に即戦力を期待されたが、
西武での3年間は満足な成績を挙げられませんでした。

1995年シーズンオフ、ハワイ・ウィンターリーグで
非公式ながら100マイル(約161km/h)を出し、
幻の日本人100マイル投手として知られるようになった。
その後、突如任意引退も辞さない構えでメジャーリーグ挑戦を直訴。

1996年シーズン開幕直前まで騒動は続いたが、
最終的には「ごねてチームの和を乱す選手は不要」と
激怒した当時のオーナー・堤義明の「行かせてあげれば」
の鶴の一声で実現しました。

このとき堤義明は激怒していたとの情報も!
このときの前田勝宏投手のマスコミ会見の印象も
生意気げで良くなかったのです。

実際そんな生意気な人ではないのに
そのように映ってしまったのです。
そのことで彼はその後ずいぶん損をした

その後の人生を見ればよくわかります。

こうしてみると少し前に活躍した 野茂英雄との
差が見えてきます。
野茂は当時の近鉄球団を怒らせなかったし、
うまく大リーグに移籍できました。

ここまで言うと人間性の差と言えるかも。
結局運と言われるものもおそらくは人徳という
目には見えないが感じるものは、

人に伝わるのでしょうね。

それとマウンド度胸というか
マウンドで折れない心と
言うものを持っている

いわゆる一言で言えば度胸になってしまうのですが・・・
才能というかやはり心の部分が大きいのでは
と最近スポーツ選手を見ていて特にそう感じますね。

前田勝宏投手の最高年収は入団年の1996年の
2億円と言われています。

ちなみに現在の年収は700万円とのこと。
しかし今の仕事には非常に満足していて
会社の同僚の評判も非常に良いですね。

後輩にも腰が低く評価もいいようです。

 

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ヤンキーズ時代は

西武退団後、野茂英雄に続く日本人として
鳴り物入りでニューヨーク・ヤンキースと契約した。

傘下のマイナーリーグのチームに所属した。
タンパの教育リーグ施設で、ヤンキース巡回投手コーチの
ビリー・コナーズ(カブス時代、グレッグ・マダックスを育てるなど実績がある)の下で、チェンジアップの習得やフォーム改造に取り組んだあと、
A+級タンパでアメリカデビュー。

約1か月後、AA級ノーウィッチ(コネチカット州)に昇格し、
そのシーズンをAA級で過ごした。

5年間のほとんどを過ごしたAAでの通算成績は、
17勝19敗・防御率4.81であった。
前田勝宏にとっても、ヤンキース側にとっても

この成績は満足のいくものではなかったのです。

ヤンキース退団後

2001年、中日ドラゴンズにテスト入団。
したものの一軍登板機会はなく僅か1年で
戦力外となってしまいました。

2005年からは専門学校であるアスピア学園の
野球部にコーチ兼任投手としてアマ復帰し、
第76回都市対抗野球大会に

三菱重工神戸の補強選手として出場しました。

2008年、四国・九州アイランドリーグの長崎セインツに入団
2009年、関西独立リーグの明石レッドソルジャーズに入団
2010年よりコーチ兼任となる。同年8月19日、
自身の申し出により退団し、引退することを決意しました。

 

前田勝宏の記録

 


















1993 西武 12 1 0 0 0 0 1 0 84 17.0 17 1 21 9 9 4.76
1994 11 0 0 0 0 0 1 0 100 20.0 25 2 21 9 9 4.05
1995 2 0 0 0 0 0 0 0 13 1.2 2 0 0 3 3 16.20
2002 興農 24 10 2 0 0 3 4 5 394 91.0 89 3 58 47 43 4.25
NPB:3年 25 1 0 0 0 0 2 0 197 38.2 44 3 42 21 21 4.89
CPBL:1年 24 10 2 0 0 3 4 5 394 91.0 89 3 58 47 43 4.25

 

前田勝宏投手が活躍できなかった理由

日本人として初めて160キロの壁を破った元ヤンキースの
前田勝宏さんが、こんな「意外」な話をしていたことがりました。

「西武時代は、二軍ではストライクが入るんだけど、一軍に上がるとストライクが入らなくなった。球速も140キロも出ないこともあった。自分の中では、こういう体勢で投げにいって、ここで壁をつくって、ここで離すというイメージがあるんです。でも、一軍だと、その形ができる前に投げてしまう」

前田のイメージを決定づけたのは西武入団3年目、
1995年オフの「退団騒動」でした。

西武との契約更改を拒否し、アメリカ行きを熱望。
その態度に根負けした西武は、いったん契約を結ばせ、
翌年5月に金銭トレードで前田をヤンキースへ放出しました。

一連の行動によって「わがままだ」、
「自分勝手」だというバッシングを浴びたが、
神戸弘陵時代の恩師、石原康司氏が
「元来は、繊細で、優し過ぎるぐらいの男」と話すように、
実際の前田は、世間で思われているほど図太い男ではなかったようです。

「一軍で活躍できなかった理由は、今になるとわかる。
怖さですよ。打たれるんじゃないかという怖さがあるから、
いつものフォームで投げられなくなってしまうんです」

 

 

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