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NHK総合22時00分~22時50分
プロ野球スカウト・苑田聡彦
2年連続でセ・リーグを制した広島東洋カープ。
その躍進の陰に、ひとりの名物スカウトの存在がある。
スカウト統括部長・苑田聡彦。72歳になった今なお、現場で“ダイヤの原石”を探し続ける球界最年長スカウトだ。
カープの快進撃に苑田聡彦の眼力が作用しているのは
間違いがない事実でしょう。
どこのチームもスカウトの腕で将来のチーム像が変わるのは
周知の事実ですね。
その眼力には、他球団のスカウトも一目置く。
小早川毅彦、金本知憲、江藤智、黒田博樹、丸佳浩、鈴木誠也など、
苑田が発掘に携わった名選手は数知れず。
今日の躍進も支えている。12球団で唯一、
FA選手を持たず、“育成”を武器に躍進を遂げたカープには、
苑田がかたくなに貫いてきた流儀があった。
育成のカープ、猛練習で培ったチーム力です。
番組では、10月26日のドラフト会議に至るまでの半年に密着。
水面下でしれつな情報戦が繰り広げられるスカウトの現場に肉薄した。
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苑田
出身地 | 福岡県 |
---|---|
生年月日 | 1945年2月23日(72歳) |
身長 体重 |
173 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、内野手 |
プロ入り | 1964年 |
初出場 | 1964年 |
最終出場 | 1977年 |
- 福岡県立三池工業高等学校
- 広島カープ
広島東洋カープ (1964 – 1977)
選手としては広島カープに14年間在籍したものの
通算成績は1711打数403安打 打率・236 本塁打23本
という成績で大活躍という実績ではなかったのです。
技術面では問題なかったが精神面で弱いところがネックでした。
なので1軍では結果を残せなかった。
4年目となる1967年はオープン戦で好調も開幕2軍を命じられ悔しさを味わったが、その悔しさが苑田を変え、2ヵ月後には1軍へ戻ると6月に山本一義の負傷欠場でチャンスを掴み、打撃が開花。
この年は109試合に出場し、打率.266と自己最高の成績を残した。
ようやく定位置も確保できると思われた1969年に山本浩二の入団で外野から内野へコンバートされた。
山本浩二と外野で競合するという不運もあり
本人には山本浩二と競いたい気持ちを持っていた。
が、
当初は外野で山本と競い合いたい気持ちが強く、
山本が入団してきた年の契約で内野コンバート前提の
契約が盛り込まれていたので春のキャンプに入ってもなかなかサインをしなかった。
これ以降は打席にもあまり立てず、守備固めの出場が多くなった。
三池工高時代は九州一のスラッガーとして名をはせており
「中西二世」とも呼ばれ期待されていた。
1964年にプロ入りし、地元の西鉄ライオンズなどが獲得にのり出したが、
苑田聡彦が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった。
広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、
「久野さんの熱心さにひかれた。お金はどうでもよかった」と語っている。
後に引退後苑田聡彦がスカウトの道に転身したのも、
久野久夫さんの存在が大きい。
苑田聡彦がスカウトした選手
まず引退しましたが黒田博樹選手と新井貴浩選手
黒田選手は高校時代、控えの選手で、大学も専修大学なのですが、
上宮高校時代もバリバリ活躍するピッチャー
ではなかったそうです。
どちらかと言えば2番手でも苑田さんは「一目ぼれ」したそうです。
立ち方、走り方、シルエット、すべてが気に入ったのだそうです。
そして口説き落として、昔の逆指名制度で入団してもらったそうです。
そして、前田健太選手、野村祐輔選手も苑田さんが獲得した選手です。
- 江藤智
- 小早川毅彦
- 金本知憲
- 嶋重宣
- 大竹寛
- 永川勝浩
- 丸佳浩
- 鈴木誠也
最近では丸や鈴木です。苑田聡彦がスカウト
の目に狂いはなさそうです。