爆報!THE フライデー
2017年11月3日(金) 19時00分~20時00分 TBS系列で放送
河野和博は1992年の夏の甲子園で一躍有名になった。
星稜高校松井秀樹に対する5打席連続の敬遠。
かってない作戦。
そんな河野和洋さんは現在
大学チームのコーチや少年野球の指導などを行いこれからも野球と人生をともにしているようです。
名門明徳高校から専修大学に進学。同級生には黒田博樹選手がいたが、入学当時は(違う意味で)河野さんの方がよっぽど有名人だったそうです。
卒業後は社会人のヤマハへ進み、アメリカの独立リーグでもプレー。2008年からは「千葉熱血MAKING」の選手兼任監督として現役を続けてきた。千葉熱血MAKINGの監督も引退。今後は少年野球などの指導者として、ずっと野球と関わり続けていきたいとのこと。「永遠の野球小僧」であり続けたいのです。
また河野和洋さん(42)の長男・球人(きゅうと)君(9)が、2017年4月11日に松井さんが居を構えるニューヨークで「全米デビュー」を果たしました。
球人君は6歳の頃からバレエに熱中。このたび日本予選を突破し、米ニューヨークで開催される「ユース・アメリカ・グランプリ」のファイナル出場が決定した。大会は現地時間11日で、河野さんは「息子は海外に行くのも初めて。
松井氏のいるニューヨークで大会に出るなんて不思議な感じです」。松井さんは現在、ヤンキースのGM特別アドバイザーを務めており、河野和洋さんは「もし、松井氏が見に来てくれたらうれしいですね」と話した。
野球のルールには連続敬遠を禁じるルールは無い。
ことの始まりは1992年夏の甲子園大会、“怪物”と呼ばれた星稜(石川)の4番・松井秀喜に対し、明徳義塾(高知)が選択したのは「全打席敬遠」でした。
満員のスタンドからメガホンが投げ込まれ、「帰れコール」の雨。試合後も騒動は収まらず、宿舎には抗議の電話が殺到した。その時、マウンドに立っていたのが河野和洋氏だ。河野和洋さんが当時を振り返りました。
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甲子園の観客より監督のほうが怖かった
ブーイングという言葉をあの試合で初めて知りました。ただ、敬遠は馬淵(史郎)監督が勝つためにやった作戦で、私たちは指示に従った。ルール内ですから別に恥じることはないと思っています。当時は5万5000人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね(苦笑)。
河野和洋は背番号8。リリーフで投げていましたが、本職は外野手でした。試合の3日前に監督から呼び出され、「星稜戦の先発はお前で行く。松井は相手にしないからな」と告げられた。「わかりました」と返事したものの、「相手にしない」の意味がよくわかっていませんでした。まさか5連続敬遠にするとは。
監督にはそれが立派な作戦でした。
あくまでストライクが入らないていでいけ!!
試合前、今度は河野と捕手が監督から呼ばれて「松井を敬遠するが捕手は座ったまま。あくまでもストライクが入らないという演技をしろ。首でも傾げておけばいい」と具体的な作戦を授けられました。敬遠のサインは監督が指を4本立てるという簡単なものでした。
【まさかこんな騒ぎになるとは!】
ベンチ横で河野和洋がピッチング練習をしていると、ネットに顔を押し付けたおっさんに「お前死にたいんか、ぶっ殺すぞ!」と凄まれた。この時は本当に怖かった。4打席目、2死走者なしで歩かせた時もブーイングは凄かったが、最終回の5打席目に2死三塁で歩かせてピークに達した。スタンドからメガホン、帽子、ビールの空き缶などが投げ込まれ、試合が中断。星稜の部員が回収に走り、異様な緊張感が球場全体に張りつめました。
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