結婚したら人生劇変!○○の妻たち【元宝塚女優深夜の夫婦(秘)タイム▽伝説の漫才師】
TBS系列 19:00~
元漫才コンビベーブ・ルース高山トモヒロさんと妻が20年間苦しんだ事とは
漫才コンビベーブ・ルースは雨上がり決死隊の同期芸人でした。
宮迫博之だけが知る真実・・・って非常に興味があります。
かって天才コンビと言われ宮迫博之にコントに走らせたキッカケになったという伝説のコンビ。
あいつらが同期にいなかったら漫才を続けていたかもと宮迫博之に言わしめたコンビ。
大阪の漫才の賞を次々受賞し、彼らは次世代のダウンタウンと呼ばれていました。
漫才コンビベイブルース「河本栄得の死」
コンビが桜ノ宮高校野球部出身だったのでコンビ名は名づけられた。
高校時代は大阪市立桜宮高等学校の野球部に所属した。野球部の同期生に元中日・阪神の捕手だった矢野燿大がいる。
高山トモヒロはプロを目指していたがお呼びがかからず、スイミングスクールに就職することに。しかし半年で退職し、相方の河本栄得の誘いでNSC7期生に入校。
1988年、高校野球部時代の親友、高山トモヒロ(当時は本名の高山知浩名義)と共に「河本・高山」を結成し、ボケを担当。NSC卒業と同時にコンビ名を「ベイブルース」に変更した。
心斎橋2丁目劇場の舞台や、関西ローカルのテレビ・ラジオなどに出演し、吉本期待の若手コンビとして期待されていた。
NSC卒業と共にコンビ名を「ベイブルース」に改名。上方お笑い大賞やABCお笑い新人グランプリなどで数々の新人賞に輝き、CDリリースやレギュラー番組の獲得など、当時の若手有望株の筆頭に躍り出た。
しかし、1994年10月中旬、大阪近郊でMBS毎日放送のテレビ番組「吉本芸人ドライブTV」のロケーション撮影中に体の不調を訴えて大阪市内の病院に入院。
その後に容態が急変し、誕生日前日の同年10月31日、劇症肝炎による脳出血のため25歳の若さで死去した。
今まで河本栄得の才能におんぶされていた高山の仕事は激減しました。
それから落ち込む事6年の月日が。
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ほぼ同時期に千原ジュニアも肝炎になる。
ほぼ同時期に千原兄弟の千原ジュニアも急性肝炎を発症しており、劇症肝炎ではないのかと疑われていた。
死去直後のヤンタンあそびのWA!の生放送では訃報を一切リスナーに伝えず高山が一人で気丈に勤めた。
河本栄得の突然の訃報に、相方の高山の悲嘆は大きかった。大阪市淀川区内で行われた河本の葬儀・告別式で高山は「皆さん、天国に向かって”河本のアホ”と叫んで下さい!!」と弔辞を読み上げた。
母親は棺にしがみつきながら息子の名前を呼び続け、周囲が止めに入っても出棺まで号泣していた。告別式には関西各地から、女子高生のファンが弔問に訪れた。
高校時代は野球をやっていたこともあり体重が90㎏近くあったが、芸人になってからはダイエットをしたこともあり、亡くなった時は70㎏台まで落ちていたという。また酒が好きであった。
没後相方の高山が出会いから没後までの思い出を綴った小説「ベイブルース 25歳と364日」を発表、この小説は舞台・映画化された。
転機が訪れたのは2001年9月18日。営業先で、清水圭・和泉修(圭・修と略称)を正式に解散したばかりの和泉修からの誘いを機に、漫才コンビ「ケツカッチン」を結成。以後は漫才ライブへの参加など精力的に活動するようになる。
また、コンビ活動に伴い、個人としてもかつての輝きを取り戻しつつあり、現在でも舞台や関西のテレビ番組などに出演している。ケツカッチン結成にあたって「ベイブルースは解散します」と正式に公言した。コンビ結成から12年目のことだった。
高山トモヒロの妻
高山美喜子さんNSCの第7期で夫のトモヒロの同期で2年年上。
NSC在校時にはすでに妊娠もしていた。
しかし、ベイブルースとしてデビューした際には結婚の事実を公にせずに独身という設定を貫き通し続けていた。
河本得栄がなくなってから、ベイブルース高山トモヒロは仕事が激減し不遇の時代を送ります。
その間奥様の美喜子さんは高山トモヒロを支え3人の子供を立派に育てた。
NSC時代の同期である2歳年上の夫人との間に3人の娘がいる。なお、夫人と結婚したのがNSC在籍時のため、結婚していることをしばらく伏せていたという。
長女はチアリーディングの日本代表に選ばれ世界一の一員になるなど運動に才を見せている。次女はNSC30期生の光永(ひなた)で、共演することもある。
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