あさが来たのあさと五代才助の関係
五代才助はのちの
大阪取引所・大阪商工会議所
設立に大きく関与します。
現在も両建物前に銅像が建っている
事をみてもあきらかです。
あさと五代は実際付き合いはあったのか
大坂で役人として辣腕をふるう五代と
あさが実際あったという記録は
残念ながらのこっていません。
じゃあってなかったのかといえば
言い切れません。
実際言葉は交わしてなくとも
会合とかで同席していたことは
ひょっとして
あるのかもしれません。
狭い大阪です。
あり得るかもしれません。
管理人の推測です。
またドラマ内ではあさと五代は
たいして年齢差が無いように
見受けられますが。実際
広岡朝子は1849生まれ
五代才助は1836年生まれ
実際はもう少し年齢が離れているようです。
恐らくあさと五代の接触のくだり
はドラマの中だけのことでしょう。
五代才助(友厚)とは (1836~1885)
ドラマ内ではたびたび遭遇し、五代が
留学先から手紙まで送るような
関係に描かれています。
ドラマではあまりにあさと五代が親しすぎて
新次郎(玉木宏)がやきもちをやく
ような間柄の様な描き方です。
もちろんドラマはフィクションなので
役人である五代とあさがそれほどまでに
親しいことは無かったと推測されます。
先日のドラマでは新次郎の父に
五代が会いに来て、大坂の地盤沈下
は見るに堪えないので、
大坂の商人があつまって”カンパニー”をつくる
必要性を力説します。
そこへお茶を持って現れるあさ
こんなシチュエーションが
あったのでしょうか?
五代はドラマの中でも登場した
銀目廃止
で弱った大阪経済を立て直すため
尽力します。
銀目廃止とは
慶応4年(1686)5月に新政府が
打ち出した関西で流通していた
丁銀・豆板銀の秤量銀貨の使用を
停止した布告。
当時江戸は金貨がメイン
関西の銀との相対的比率(相場)
が絶えず変動し商取引に
不便があったので貨幣改革の
手始めとして実施したもの。
しかし、大坂での銀での貸借
が巨額であり、両替商を支払人として
発行された銀目手形を所持する人
の誤解を生み、取り付け騒ぎが
おきたもの。ドラマでも描かれていましたね。
このため手形を所持した市民が多数
殺到したため、大多数の両替商が
支払不能に陥りました。
この騒ぎではつの嫁ぎ先の
山王子屋も倒産しました。
スポンサーリンク
五代(才助)友厚とは
幕末の薩摩藩士で明治の実業家
政商。安政4年(1857)に藩命で
長崎に留学し、航海術・砲術・測量術
を学ぶ。24歳で水夫として上海に
行き、薩摩藩の命によりドイツ汽船
を購入。薩英戦争時は寺島宗則とともに
英戦艦にとらえらたが脱走する。
まもなくして藩命により
渡欧、武器や機械類を購入
薩摩藩の富国強兵と殖産興業の
推進に尽力
明治維新後は新政府参与となって
外交官権判事や大阪府判事などを
歴任。大阪経済を立て直すため
官界から実業界へ転身
商工業の組織化
信用秩序の再構築を図り
大阪を本拠に製鋼・貿易・銀行・鉄道
などの会社の経営
大阪株式取引所(のちの大阪取引所)
および大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)
の創設に尽力
大阪経済の一番の功労者として
大阪市内に4体の銅像が建っています。
これは五代友厚をおいて
他に類をみません。
まとめ
こんな大阪の大恩人の
五代友厚
なぜ薩摩の藩士の彼が
こんなに深く大阪に関わったのか?
これは明治政府になり
最初の赴任地が大阪だったこと
からでしょう。
明治新政府の参与職外国事務掛となる。
外国官権判事、大阪府権判事兼任
として大阪に赴任し
大阪の地を気にいったのかも
しれません。
ちなみにこの五代才助の生まれ年
1836年生まれにはなんと土方歳三・坂本竜馬
山岡鉄舟・井上 馨・榎本 武揚
江戸末期から明治の歴史を
左右する人物が名を連ねています。
スポンサーリンク