【ハチの一刺し】榎本三恵子はロッキード事件でなぜ証言した?経歴や今現在
「ハチは一度刺したら命を失うと申しますが、人を刺すという行為で私も失うものが大きいと思います」
この言葉が流行語となり、戦後最大の疑獄事件・ロッキード事件の行方を決定づけた女性がいました。榎本三恵子さん。田中角栄元首相の筆頭秘書官だった榎本敏夫氏の元妻です。
1981年10月28日、東京地方裁判所での証言台に立った彼女の一言が、日本中を震撼させ、田中角栄元首相を有罪へと導く決定打となりました。なぜ彼女は元夫に不利な証言をしたのか。
その後の人生はどうなったのか。今回は、榎本三恵子さんの波乱に満ちた人生を振り返ります。
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榎本三恵子のプロフィール
基本情報
- 本名:榎本三恵子(えのもと みえこ)
- 旧姓:細田
- 生年月日:1948年7月4日(現在76歳)
- 出身:東京都
- 職業:元タレント、元ホステス
- 家族:長男・榎本一氏(元東京都北区議会議員)
榎本三恵子さんは、1948年7月に東京で生まれました。中学生のころに父親を亡くし、「父性愛に飢えていた」と後に語っています。この経験が、後に22歳年上の男性と結婚する遠因となりました。
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運命の出会い:18歳の少女と40歳の秘書
銀座のクラブで始まった物語
1966年秋、18歳の三恵子さんは銀座のクラブでホステスとして働いていました。
ある日、店の裏通りのラーメン屋『来々軒』で一人食事をしていたとき、運命の出会いが訪れます。
食べ終わって店を出ると、客の連れの一人が追いかけてきて、働いている店名を聞かれたといいます。その客こそが、当時40歳の榎本敏夫氏でした。
三恵子さんが榎本氏を見た第一印象は「ちっちゃい人だなあ」というものでした。
榎本氏は「君は背が大きい。僕はちっちゃい。だから相性が合うんだ」と言ったそうです。
突然のプロポーズ
翌日から榎本氏は店に通い始め、カウンターで水割りを二、三杯飲んでいくのが日課になりました。ある日、店に名刺を置いていきます。その名刺の肩書には『自由民主党幹事長 田中角栄第一秘書官』と書かれており、店内が一気にどよめきました。
そして後日、榎本氏は三恵子さんに「僕の秘書にならないか」と突然持ちかけ、履歴書を書くように言いつけます。てっきり就職のためと思い込んだ三恵子さんが榎本宅へ履歴書を届けに行ったところ、いきなり向こうの両親に引き合わされ、結婚のための面談となったのです。
22歳差の結婚
一度の離婚歴があった榎本敏夫氏は40歳、三恵子さんは18歳。22歳も年が離れているということで、結婚は家族から猛反対されました。
しかし、榎本氏の「田中先生を総理大臣にする」という熱意に三恵子さんは打たれます。
また、父親を亡くしていた三恵子さんは「自分は父性愛に飢えていたから」と、年の差のある夫に惹かれたことの理由として挙げています。
式はその年の12月9日、田中角栄氏の仲人で、ホテルニューオータニで行われました。12月14日に婚姻届を提出しましたが、その日まで榎本敏夫氏は三恵子さんの18歳という年齢を知らなかったといいます。
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総理大臣秘書官の妻として
夢の実現:1972年
1972年7月5日、田中角栄氏が自由民主党総裁に当選し、総理大臣に就任しました。総理大臣筆頭秘書官の妻となった三恵子さんは電話で報告を受け、涙を流しました。
夫の「田中先生を総理大臣にする」という夢が実現した瞬間でした。
三恵子さんは、陳情に来る人物や財界の頂点にいる側近などに対して、夫と共に接触して付き合っても問題ないかどうかなどを忠告するなどの役目を負うようになります。
不吉な予感:丸紅との関係
後に丸紅ルートと言われ、裁判でも大きな焦点となる5億円の受け渡しを行った、
大手総合商社の丸紅の関係者に関しては、三恵子さんは早くから「付き合いは止めて欲しい」との忠告をしていました。
その時の榎本敏夫氏の返事は「君がそう思うなら間違いないだろう」というもので、
それ以来、丸紅関係者からの電話は家へかかって来なくなったと三恵子さんは信じていました。
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離婚への道:信頼の崩壊
決定的な理由
三恵子さんが離婚を決意した具体的な理由の一つが、榎本敏夫氏の隠し預金口座でした。
本人の兄弟姉妹、子供たちの名義はあるのに、妻である自分の名義のものが一つもなかったのです。
結局、夫は10年間連れ添った自分を妻として認めていないことがわかり、決定的に気持ちが醒めてしまいました。
別居:1976年5月
1976年5月、三恵子さんは離婚を前提に一方的に家を出ます。
榎本家のすぐそばの夫名義のマンションの部屋に住み、そこから毎日、子供たちの食事の世話に通いました。
逮捕と自白
1976年7月、榎本敏夫氏が逮捕されました。逮捕二日後、榎本氏は五億円の授受を自白してしまいます(ただし公判段階では否定)。
翌日、砂防会館内で弁護士からそのことを聞かされた三恵子さんは、再び裏切られたという気持ちになり、離婚の意志を確固としたものにしました。
三恵子さんは小菅の東京拘置所に毎日のように通いましたが、面会は許されませんでした。
後に手記に「私が小菅に通っているところを夫が目にすれば、喋ってはだめという約束事の無言の意思表示になると思った」と書いています。
保釈後の土下座
8月17日、田中角栄氏と共に保釈された夫と三週間ぶりに病院で対面しました。
榎本氏は「君の言うとおりだった。もう一度一緒にやり直したい」と土下座までして離婚は考え直すように懇願しました。
しかし、拘置所では絶対にしゃべらないという約束を反故にされたことから、三恵子さんは「もう手遅れでしょう」と拒絶しました。
協議離婚成立:1977年10月
1977年10月29日、双方弁護士を立てての話し合いで協議離婚が成立しました。
ただし、その後も榎本姓を名乗ることにします。その理由は「子供たちが大きくなった時、訪ねてくる道標としてつながりを断ちたくない」というものでした。
離婚協議書によれば、以下の内容が取り決められました:
- 慰謝料:2千万円
- 茨城県にあった土地の財産分与
- 月2回くらい子供と面会することを認める
- 別居したときに仮住まいした榎本宅の近所のマンションの一室を渡す
しかし、子供には会わせてもらえず、茨城県の土地は市街化調整区域に編入されほとんど無価値になってしまいました。
三恵子さんは土地を榎本氏が5千万円で買い戻すという要求を出しましたが、これらの約束は履行されることはありませんでした。
これが後々まで尾を引くことになり、そのことが証言台に立つきっかけともなります。
三恵子さんは、榎本側が自分のことを「財産を持ち逃げした女」
「しきりに金銭を要求してくる女」「ヒステリー持ちの女」との噂を流しているのではないかと神経質になっていきました。
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「ハチの一刺し」発言
証言から約一週間後の11月4日、榎本三恵子さんは記者会見を開きました。
「真実を述べるのは私の国民としての義務だと思います」
そして、こう続けました。
「ハチは一度刺したら命を失うと申しますが、人を刺すという行為で私も失うものが大きいと思います」
この「ハチの一刺し」発言は当時の流行語となり、妻が夫に不利な証言をするという前代未聞の出来事として、日本中で話題になりました。
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榎本三恵子はなぜ証言したのか?
本人は語らず
榎本三恵子さん本人は、証言した真の理由を詳しく語っていません。そのため、推測するしかないのが現状です。
考えられる複数の理由
1. 社会正義への使命感
記者会見での「真実を述べるのは私の国民としての義務」という発言から、一定の正義感があったことは間違いないでしょう。
2. 裏切られた怒り
より大きな要因と考えられるのは、元夫への怒りです。離婚に至った経緯を見ると:
- 隠し預金口座に自分の名義がなかった
- 「絶対に喋らない」という約束を破った
- 離婚協議書の約束が履行されなかった
- 自分について悪い噂を流されていると感じた
これらの積み重ねが、三恵子さんを証言台に立たせた大きな動機だったと考えられます。
3. 経済的な問題
離婚後の生活、特に子供たちの養育を考えると、経済的な不安もあったでしょう。約束された財産分与が履行されなかったことへの怒りも含まれていたと推測されます。
4. 検察の説得
検察側が、三恵子さんを証人として説得する過程で、様々な働きかけがあった可能性も否定できません。
いずれにせよ、妻が夫に不利な証言をするという前代未聞の出来事の背景には、複雑な人間関係と感情の絡み合いがあったことは確かです。
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証言後の人生:タレント活動とその後
タレントとしてデビュー
証言後、榎本三恵子さんはマスコミにたびたび登場するようになりました。
突然雑誌に自身のヌード写真を披露したり、タレントや女優に転身してバラエティ番組やテレビドラマに出演したりと、様々な話題を提供しました。
世間を騒がせた「ハチの一刺し」の人物として、メディアの注目を集め続けたのです。
第二子の出産:1991年
1991年には、未婚のまま男児を出産するという、再び世間を驚かせる出来事がありました。「死ぬどころか世間に一刺しを繰り返してきた」と評されることもありました。
下着訪問販売員として:2000年代
2000年から女性用下着の訪問販売を始めました。下着販売会社の担当者によれば:
「2000年から販売員を始め、積極的な活動で知られた方でした。トップレベルの売り上げを誇った時期もありました。ところが、03年4月、突然、退会してしまいました。事情はわかりません」
2003年春まで女性用下着の訪問販売をしていたことが判明していますが、それ以降の足取りは途絶えています。
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長男・榎本一氏との確執
22年ぶりの再会:1999年
1999年春、榎本敏夫氏と榎本三恵子さんの間の長男・榎本一氏が東京・北区の区議選に出馬した時、三恵子さんは選挙応援に現われました。
しかし、長男は歓迎せず「困る」ともらしていたといいます。22年ぶりの母子再会でしたが、和解には至らなかったようです。
2003年の選挙には不在
実際、2003年春の2選目の選挙戦には顔も見せませんでした。
長男の榎本一氏は報道陣に対し、「母と私は別個人。個人の問題に関しては申し上げることは何もありません」と語っています。
父親のことを裏切った母親を、長男は許せなかったのでしょうか。親子の確執は深いものがありました。
長男・榎本一氏の経歴
榎本一(はじめ)氏は、1968年8月、北区生まれ。環境業界紙の記者、鳩山邦夫氏の政策スタッフを経て、1999年に北区議会議員に初当選しました。
その後、副議長、議長などを歴任し、16年にわたって北区議会議員を務めた、自民党のベテラン議員でした。
主な議会役職(抜粋)
- 2010年~2011年:副議長
- 2011年~2012年:防災対策特別委員会委員長
- 2013年~2014年:政調会長
- 2014年~2015年、2016年~2017年:建設委員会委員長
- 2015年~2016年:議会運営委員会委員長、副幹事長
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【最新情報】長男・榎本一氏の逮捕と辞職
衝撃の逮捕:2021年11月
しかし、2021年11月10日、榎本一氏は覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで逮捕されるという衝撃的な事件が起こりました。
北区議会は11月9日、榎本一議員が覚醒剤使用した疑いで逮捕されたと報道され、「このことは極めて遺憾であり、区民の皆様並びに関係各位に深くお詫び申し上げます」との声明を発表しました。
起訴と辞職勧告
11月30日に起訴された後、12月3日開会の本会議において、榎本議員に対する辞職勧告決議が全会一致で可決されました。
議長・副議長で辞職を促すために榎本議員と複数回にわたり面談を行い、12月16日に榎本議員から議長あてに辞職願が提出され、同日に辞職が許可されました。
議会からの厳しい言葉
北区議会は声明で次のように述べています。
「このような事件は、北区と北区議会の名誉を傷つけるにとどまらず、北区議会に対する区民の信頼を著しく失わせるもので、極めて重大な問題です。
議員は、区民からの厳粛な信託を受けた立場と職責を深く認識し、その品位と名誉を損なう一切の行為を慎むとともに、区民全体の奉仕者として人格と倫理の向上に努めなければなりません」
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元夫・榎本敏夫氏の最期:2017年7月
静かな最期
榎本敏夫氏は2017年7月2日、老衰のため東京都北区の自宅で死去しました。91歳でした。
告別式は7月7日午前11時から北区上中里の城官寺会館で行われ、喪主は長男で当時北区議会議長だった榎本一氏が務めました。
ロッキード事件の裁判結果
榎本敏夫氏は、ロッキード事件の裁判で、丸紅側から田中角栄元首相に5億円の賄賂を渡したと認定されました。
1983年10月12日、東京地裁は懲役1年執行猶予3年の有罪判決を言い渡し、1995年2月22日に最高裁で外為法違反罪での有罪が確定しました。
田中角栄氏の無罪を主張する田中派の国会議員らは「榎本アリバイ」を主張して法廷で証言しましたが、
裁判所は「榎本アリバイ」は立証されていないとして、榎本氏は田中の使者として5億円を受け取ったと認定しました。
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