徹子の部屋 市毛良枝さん出演
2019年5月24日(金) 12時00分~12時30分 テレビ朝日系列
1977年に出演した嫁姑関係を描いたドラマシリーズ「小さくとも命の花は」(平岩弓枝原作)で新妻役を演じ、人気を博します。新妻役が大好評なあまり、当時の市毛良枝は、「お嫁さんにしたい女優No.1」「理想の花嫁No.1」と、おおいに人気を博す。
しかし、今登山を始めていることを思えばそんなに旦那の言う通り、姑の言う通りの良妻賢母のイメージははなくこれはあくまで、ドラマだけのことで割とあっさりした言いたいことはズバズバいう女性のようです。
私生活はね。当時竹下景子という女優がいて、元祖の「お嫁さんにしたい女優」だったのですが、当時は賢い・おしとやか・反抗的ではないなどの良妻賢母を世の中が求めていたのが、よくわかりますね。
市毛良枝のプロフィール
- 職業:女優/声優・ナレーター
- 生年月日:1950/9/6生まれ(68歳)
- 星座:おとめ座
血液型:O型
出身地:静岡 - 趣味:登山 社交ダンス
- ペット:犬 猫
- デビュー年:1971年
- デビュー作
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冬の華 (TBSテレビ)
- 代表作品
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1977年 ライオン奥様劇場~嫁姑シリーズ~ (フジテレビ)
1989年 オレゴンから愛~オレゴン日記’89 (フジテレビ)
1999年 山なんて嫌いだった (著書)
- 主な出演作品
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【テレビ】
越路吹雪物語 マチ工場のオンナ 駐在刑事 危篤スルー 釣りバカ日誌~新入社員浜崎伝助~ ボクの妻と結婚してください お葬式で会いましょう サイレント・プア【映画】
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市毛良枝は登山が趣味始めた理由は
市毛良枝さんは登山、バラエティー番組でも女性芸能人の筆頭。登山と言えば市毛良枝という感じで、たくさんの番組に出演しています。
しかし、登山は紫外線を浴びるし、女優としてはまずいのではないか?という推測もありますが、市毛良枝がなぜ登山を始めたのでしょうね?
それにはこんなエピソードが!
「父を看取ってくださったお医者さんが山好きで、登山のグループに誘われたんです。いきなり2700メートルクラスの北アルプスの燕岳(つばくろだけ)と常念岳に登りました。登山の靴とか一式全部そろえて。夜行でいって山小屋に泊まって頂上をめざす。苦しかったけど、頂上に達したとき、それはもう私のすべてが変わる体験でしたね。こんなにも楽しく素晴らしい世界があるんだ!」
あの常念岳って北アルプスの確か2800mくらいの山です。とにかく標高600m位から登るのですが。標高差が2000m以上あり、アプローチが長く嫌になります。私は12月にテント持参で登ったことがあって、常念小屋の避難石室(冬場は山小屋営業していない小屋)は一部登山者に無料で泊まれるようにしていたのですね。もちろん暖房も食事もないです。
こうしておかないと、小屋本体の板張りを剥がして燃やしたりする輩がいたり、休業中の小屋に強引に入りこむ人間もいるのですね。
市毛さんいきなり北アルプスの主峰ではないが二番手グループの山に登って人生が変わったのかもしれません。普通は1000m級の山から慣らすのですが。やはりあの清々しさは登った人間でないとわかりませんよね!
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「登山と俳優の仕事を続けてきて気づいたことがあるんです。山で得たあの感動は、台本をもとに何かを必死になって作り出してきた感動と、それほど違わない。例えば歌舞伎で、いきなりパンと幕が切って落とされる。と、ずっと見えていたものじゃないものがパーッと見える。わっ凄い。そういうことが山では起こるんです」
「雨が降って何も見えない。景色も見えなくて辛いと思っていたとき、急に陽がさしてきて、くっきりと山が見える。これって歌舞伎の幕が落ちるときと同じだ。私は森羅万象に感動してる。それは芝居を見にきたり、テレビを見ている人たちが得ようとしている感動と同じなんだ」
俳優は台本を与えられるが、山は自分で台本を書いている-そう思ったとき、迷いが消えた。
俳優の仕事と山登りをシンクロさせてしまったので、もうやめたいという気持ちも亡くなったようですね。
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市毛良枝の今現在
13年にわたり母の介護にあたった市毛良枝さん。その母が101歳を目前に亡くなった。女優業と並行しての介護は、多くの人たちに頼らざるをえなかったが、それが後に様々な意味で良い結果につながったという。
なんと99歳まで海外旅行に出かけ、100歳でも国内の温泉旅行へ一緒に出掛けたそう。なかなか元気なおばーちゃんです。
しかしその裏には壮絶な介護があったのですよ。
介護は13年にも及ぶ。市毛良枝の母が最初に脳梗塞を起こしたのは平成16年3月。これは軽く済んだ。
翌17年1月、再び脳梗塞で入院した際、相次いで脳出血と大腿骨(だいたいこつ)骨折に見舞われ、一気に寝たきりや認知症になる危機に立たされましたのです。
「車いすで移動できるまで回復を目指す」と医師が言うのを聞き、「ああ、母は歩けなくなるのか…」と大きなショックを受けた。
当時、母は89歳。「もう長くない。1年か2年、母の介護と向き合おう」と市毛良枝さんは覚悟を決めました。
それからは仕事もセーブし、地方出張も控え、毎日8時間、仕事の合間に病院で歩行訓練などのリハビリに付き添いましたのです。
母を自宅に連れ帰るには、バリアフリー対策も進めなければいけない。当時、連続ドラマの撮影中で、看護師に「いつ仕事しているの」と不思議がられたぐらいつきっきりに。
老化のスピードにリハビリで追いつけるのか。日々その闘いでした。リハビリが勝り、母は徐々に元気になり、2度目の脳梗塞の半年後、自宅に戻ることができました。
お母さんが元気になるのは市毛良枝さんが望んだこと。
けれど、それは介護がその先、長く続くことを意味した。退院直後の母は、あれこれできないことだらけ。一日中、母の様子に耳を澄まし、夜中のトイレにも付き添う。やがて生活に慣れた母を留守番させても大丈夫と思ったころ、骨折し、リハビリが振り出しに戻ったこともあるのです。
そんな具合だから、外出は仕事のためが精いっぱい。仕事の合間にも帰宅しておかあさんの昼ご飯も作り、しばらく介護に打ち込みのだ。
そのうち、気分が落ち込み、石毛良枝さんは時々、涙が出るようになりました。あるとき、「食事のことで」と看護師に呼び出された。
私を心配したリハビリ病院のスタッフが、カウンセリングをと考えてのことでした。
「母と2人の食事はつまらない。残るから母の好物しか作らない」と話すと、「それじゃ、あなたの肉体がもたない。
お母さんより先に逝(い)くわよ」とスタッフにしかられ、涙があふれたことも。
結局、2時間話した。半分、鬱(うつ)状態だったのだと。
その翌年の21年4月、お母さんの介護をしていた(女優の)清水由貴子さんが自殺。とても人ごとと思えまのです。
最近、「もっと人の手を借りなければ」と切り替え、ショートステイの利用を増やしました。仕事時の利用に加え、自分が少し息をつく時間も持つようにしました。母も「また来るわね」なんて言って楽しそう。次第に預けることへの罪悪感が薄たようでした。
亡くなる少し前には市毛さんが仕事に行く間、おかあさんは留守番もできるまで回復しました。
出かける前の準備はひと騒動。空調を調節できない母のため、暑すぎず寒すぎず、「何とかなるかな」という温度にし、テレビの前や食卓など、母が座って過ごす場所に冷水を入れたポットを置く。でも、気を使って薬を用意しても母は飲み忘れ、ケロッと「忘れちゃった」なんて言ういうことも。
お母さんがひとりでトイレに行けるよう、リビングの真ん中にソファ、意味不明な場所にいすを置き、その背もたれが手すり代わり。おしゃれなインテリアも何もあったもんじゃありません。市毛良枝さんは女優を続けながら、10年以上に渡ってそんな生活を送ってきた。
頭が下がります。
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