野村克也の名言はマー君神の子、不思議な子どんな状況で出た?

あの「ボヤキ」は、もう2度と聞けない――。
本当に寂しいです。

プロ野球の南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天などでも監督として指揮を執った野村克也さんが死去したことが2020年2月11日、分かった。84歳だった。

 

  • 野村克也さんの訃報に、SNS上でも悲しみの声が広がった
野村克也さんの訃報に、SNS上でも悲しみの声が広がっています。

1965年には戦後初となる3冠王に

野村さんは1935年6月29日、京都府生まれ。峰山高から54年にテスト生として南海に入団し、その後はロッテ、西武で80年まで名捕手として活躍した。

57年に初の本塁打王を獲得。63年に当時のプロ野球記録となるシーズン52本塁打を放ち、65年には戦後初となる3冠王に輝くなど、当時の日本球界を代表する選手となった。通算成績は3017試合に出場、2901安打、1988打点、657本塁打、打率2割7分7厘。MVP5回、ベストナインは19回受賞した。

同時期には巨人で活躍した長嶋茂雄さん、王貞治さんがいた。「長嶋や王がヒマワリなら、オレはひっそりと咲く月見草」。圧倒的な人気を誇った両選手と自身を花にたとえた名言は、今でもファンの間で語り継がれている。

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マー君神の子、不思議な子

この名言、迷言はどのような状況で出てきたか?

そう時は2007年8月3日にさかのぼります。当時野村監督は楽天の監督、対ソフトバンク戦で先発田中将大が打ち込まれ「マー君、神の子、不思議な子」という名言が。

楽天入団1年目の07年8月3日、4回で5失点しながら勝利投手になり、神懸かり的な力に監督野村克也は驚く。「何点取られるか投げ続けさせたら、天から神が降りてきた。先祖代々、何かあるんだろうな。そういう星の下に生まれている」。
しかしゲームが終わってみれば、マー君は負け投手になっていなかった。

これを受けての試合後の野村監督のひとことであった。

2004年は球界再編で揺れたプロ野球界

事の始まりは、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バッファローズの2球団の合併によりパリーグは5球団での運営をよぎなくされた。

10球団の1リーグ制なども検討課題に。大きな社会問題になった。

選手会側は2リーグ12球団維持を求めストライキに突入。
プロ野球始まって以来の出来事だった。

結果新規新規参入球団が認められIT業界雄の楽天のプロ野球参入が認められた。

しかし、楽天の初期メンバーはオリックスと近鉄のあぶれた選手が中心メンバーだったため、初年度の楽天の成績は38勝97敗1分(勝率2割8分1厘)超ポンコツ球団であった。

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そこで楽天球団フロントの目に留まったのが、名将野村克也監督。
実績は問題なく、ID野球・野村再生工場などとアイデア豊富なベテラン監督であった。
幾分くどいながら、野球に対する考え方はブレない人物であった。

野村監督の1年目借金38に終わるも、1年目のオフ超高校級の駒大苫小牧の田中将大を獲得。

駒大苫小牧では、2年夏の甲子園優勝投手、3年夏にはご存知現日ハムの斎藤佑樹と投げ合い準優勝投手。

150km近いストレートにスライダーを武器に当時の高校生としてはずば抜けていた。

南海・ヤクルト・阪神・社会人のシダックスと幾多の名選手を育てた野村克也監督も田中将大の実力を認めざるを得ず、1年目から開幕ローテーション投手として登用。

開幕直後の4月に初勝利・6月には初完封、楽天のチーム自体は相変わらず低迷していたが、明るい話題であった。

野村監督も新人に対して「マー君」と親しみを込めて近づくことに。

打たれても不思議に負けない勝負運を田中将大が持っていた。中でも2007年8月3日のゲームは際立っていた。

先発田中将大は4回までに5失点と乱調、しかし味方の楽天が4・5回で7得点をあげて逆転。

6回を投げ5失点も田中将大は勝ち投手に。

このころ、恒例であったご存知の試合後インタビューで野村克也監督がつぶやいた。

「マー君神の子、不思議な子」と発言。その後「不思議だね、彼が投げると打線が点を取り返す。本当に不思議な子だね。不思議の国のマー君」と続けてコメント。

幾多の勝負を繰返してきた野村監督にはこの日のゲームは完全に負け試合。

それから6年後26連勝を達成し楽天の優勝に貢献した田中将大の将来を当時の野村克也監督は見透かしていたのかもしれないです。

野村克也監督のご冥福をお祈りします。

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野村克也のプロフィール

野村 克也()は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。

プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。

選手としては、史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持つ。

特に1963年に記録した52本塁打は後に1985年に落合博満も記録するが、その落合と並んで日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録である。

また、監督としても「平成」(1989年1月8日 – 2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持している。

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