石塚和生(ラーメンシェフ)は佐野実の弟子プロフィールは【ザ・ノンフィクション】

石塚和生、58歳。ラーメンシェフと呼ばれている。
ラーメン界でシェフと呼ばれるのは石塚和生ただ一人らしい。
シングルマザーの母のもとに生まれ、幼少時に母を亡くし、身寄りのなくなった石塚は、イタリアンの料理人からラーメン職人となり、イタリアンテイストのラーメンで市ヶ谷の「Due Italian」は行列のできる人気店に。

続いて、日比谷、台湾、三軒茶屋などに次々に新店をオープン。
そんな石塚に、ラーメン職人になるきっかけを作ったのは、今は亡き師匠“ラーメンの鬼”佐野実。テレビ番組の「ガチンコ」のガチンコラーメン道に応募したのがきっかけ。

 

師匠佐野実が最初に店を出した神奈川・藤沢市への出店話があり、佐野が石塚に託したスープのレシピを使った新しいラーメン作りに取り掛かろうとする。

残念ながら佐野実さんは2014年4月11日午前2時57分、多臓器不全のため川崎市の病院で死去。関係者によると、2006年頃から10年近くに亘り糖尿病を患っており、同年2月中旬より体調を崩していたという。63歳没。

亡くなる数日前に佐野自身が最後に口にした物もやはりラーメンで、本人が病室のベッドの上で「ラーメンを食いたい」と発言し、病室のベッドの上で佐野の弟子らが作ったラーメンのスープをやや薄めた物を食していたと言う。

その際、本人は「薄くて不味い、毎日店でこんな物出しているのか」と言いながらも最後までそのラーメンを食していた。

しかし、石塚を次々と災難が襲う。台湾店の店長が交通事故死、三軒茶屋店が売り上げ不振。さらに石塚自身も交通事故に巻き込まれてしまう。この八方塞がりの状況から2019年に入り、経営者から一人のラーメン職人に戻り、ようやく師匠に託されたレシピでのラーメン作りに取り掛かる石塚シェフ。

味に迷い、師匠である佐野の妻・しおりに試食してもらう。果たしてラーメンは完成は?

「ガチンコラーメン道」石塚和生が怒り爆発させる。この頃からリーダーシップは抜群です。

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師匠佐野実との出会い

石塚和生は41歳までイタリアンで頑張った。
しかし、そこで、ちからが尽きた。倒産。店を閉めたのは、石塚和生41歳の時。そして、ちょうどその頃TVに出演した。

実は、石塚氏、過去にTBS系TV「ガチンコ!ラーメン道」に出演している。

番組を仕切ったのは、ラーメンの鬼とも呼ばれた「支那そばや」の佐野実氏だ。
「たまたま、TV局の人がきて、『ラーメン道』いう企画が進んでいるんだけれど、『だれか紹介してくれませんか』っていうから、じゃ、オレがって立候補した」。

何を思って、手を挙げたのだろう。その時までラーメンに思い入れなどまったくなかった。実際他のメーバーにラーメンの素人と言わればかにされた。
ラーメンが好きだったわけではない。敢えて好きというなら、「チャルメラ」と「サッポロ一番」だった。ただ、イタリア料理とは、パスタという共通項がある。

ともかく、この番組はラーメンの鬼である佐野氏の下で参加した料理人たちがラーメンづくりを競うのだが、何しろ、テーマが「ガチンコ」。仕切るのが佐野氏である。ハンパないバトルが繰り広げられる。

実際テレビを見ているときは、ヤラセっぽい番組だなと思っていたのだが。

「お前の20年は、なんだったんだよ」と佐野氏から罵声が飛んだ。
いろいろ言われてる番組ですが、結構ガチでしたよ。石塚の役割は、冷静なタイプの、いわば進行役。

ええ、いってもTVでしょ。そういう役割が、それぞれにあった。商魂をためすために、大阪に向かったこともある。

TVでは、ラーメン作りに悪戦苦闘しているのだが、実際、ラーメンづくりはどうだったのか。それは番組が終わったあともラーメン界にとどまっているのが答えだとお思う。

ただ、「佐野実」という「鬼」に出会えたのは、石塚和生にとって大きな収穫だった。

「なにもかもが新鮮です。佐野さんのラーメンにかける思い。横にいるだけで、ビリビリと伝わってきました」。

イタリアンからラーメンに舵を切り、石塚氏が再スタートしたのは2009年のことである。
以来、2019年現在で、10年が経つ。

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石塚和生のプロフィール

株式会社フロムフォティ オーナーシェフ 石塚和生氏
生年月日 1960年8月15日
プロフィール 名古屋生まれ。私生児として生まれる。5歳の時、母を亡くし、以来、実の父親に引き取られ育てられる。父親に引き取られたのは、5歳の時。

ただし、石塚氏には「寿がきやのおじさん」としか知らされていなかった。「私は私生児で、母は私が5歳の時に亡くなります。それ以来、私を育ててくれたのが、寿がきやのおじさん」。
もっとも育てたと言っても、あちこちの知り合をたらい回しされただけ。
「7回は、家族がかわった」と石塚氏は述べる。

ある家族といっしょに遊園地に行った時のこと。「帰りにはその家族はいない。そしてその足で新たな家族のところに連れていかれた。

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「刑務所で釈放と言われて喜んでついて行ったら死刑執行みたいなものですよ」。

笑顔も、やすらぎも、はく奪されるためにあった。ただ、石塚少年には、その感覚もなかったかもしれない。ただただ、そういうもんなんだ、と。
そんな生活が、小学4年生までつづく。時には、施設にも入れられた。
「もっとも施設がいちばん心やすらいだ」とは可愛そうな境遇であった。

高校卒業を待たず、3年3学期で退学。その後、名店を渡り歩き、修業を重ね26歳で独立。

イタリア料理「La Pasta」、エノテカ「Vino Rosso Italiano」、オステリア「フィレンツェ食堂」など、一時はイタリアレストランを6店舗展開するも、倒産。

TBS系TV「ガチンコ!ラーメン道」に出演し、ラーメン業界の巨匠、佐野実氏との出会い、「ラーメンの道」を究める旅に出る。
主な業態 「ドゥエ イタリアン」

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