小林秀一(野球選手)巨人ドラフトを拒否!理由や経歴と今現在は

消えた天才★史上唯一!巨人のドラフト1位指名を拒否した天才SP★

2019年6月23日(日)  20時00分~20時54分 TBS系列で放送

小林 秀一(こばやし ひでかず)さんはこのプロ野球ドラフト会議の歴史の中で唯一巨人の1位指名を拒否した選手です。
プロ野球ドラフトに指名されるなんて野球少年なら普通もろ手を挙げてウエルカムです。野球選手にとってプロ野球ドラフトで指名される。仮にソレが1位指名でなくとも育成ドラフト指名でも名誉なことであるはず。

普通の選手ではね。では小林秀一投手ではどうだったのか?なぜ指名を拒否したのか。

そこにはある理由があったのです。

小林秀一投手が巨人の1位指名を拒否した理由

1973(昭和48)年の第9回ドラフトドラフト史上、後にも先にもないという珍事が起きている。それは、球界の盟主を自認し、人気ナンバー1球団であることを自他ともに認める巨人が、ドラフト指名選手の1位~3位までの全員に入団拒否されたことである。

1位指名は小林秀一 契約金は当時3000万円今の価値で1億円 10番目のクジ順となった巨人は愛知学院大の下手投げのエース小林 秀一を指名。そして、折り返しの2位指名では糸魚川商工の黒坂 幸夫投手を指名。さらに、3位には即戦力捕手として、住友金属の中村 裕二を指名した。ところが、実際に交渉に入ってみると、あろうことか、3位までの選手が皆拒否した。

4位の愛知学院大迫丸 金次郎がやっと入団したものの、巨人の歴史に残る失敗ドラフトとなってしまった。ジャイアンツのスカウトは実家の熊本にまで押し掛けたらしい。
同級生を使って説得したこともあった。

小林秀一の拒否理由は当時の読売ジャイアンツ監督川上哲治の言葉。

「巨人は君の野球技術を買って1位指名した。ノンプロで野球を続けるんだったら、プロでやるのが本筋というものだろう。熊谷組に入れば君は会社の仕事もしなくてはならない。かといって会社は君に他の社員と同じような仕事ができると期待してもいない。野球部員として入社するのだから。だったらプロで真剣に野球に取り組むべきだ」。

ここで小林秀一は自分の原点を思い出した。「野球オンリーではない生き方を自分は選んだはずだ。ならば、野球を本職にしてはいけないと…」小林秀一投手はアマチュアの指導者を目指していた。当時はプロアマ規定が厳しくプロ選手が引退後アマチュア選手を指導することが出来なかった。

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投手の名前は小林秀一。ドラフト史上ただ一人、巨人の1位指名を蹴った男は、愛知学院大のエースとして全日本大学選手権に出場。シュートとスライダーを駆使し、チームを準優勝に導いたアンダーハンドだった。

小林の夢はプロではなかった。将来は教員になって、アマ野球の指導者になりたかった。
高校時代に木村監督にオーバースローからアンダースローに変えてみてはの一言。
巨人1位指名まで上り詰めた。

ノンプロの熊谷組に就職し、野球を続けようとしたのもいずれ指導者になった時のために、アマの世界を広く知るための通過点だった。

プロ野球選手になればアマチュアの指導者の道が絶たれることになるのだ。当時のプロアマ規定では。

ドラフト当日は、郷里・熊本の母校八代第一高(現、秀岳館高)で教育実習中。指名されたときには世界史の授業のため、教壇に立っていた。ジャイアンツ1位指名を知ったのは、授業が終わり職員室に戻ってからのこと。父からの電話だった。

「なぜオレが巨人に…」というのが最初の感想だった。たしかにプロ3球団ほどから打診はあった。しかし、巨人からはあいさつもなければ、電話すら一本もなかった。天下の巨人軍の1位指名なら、誰でも感激して入団する--。そんな考えが見え隠れし、あまりいい気分はしなかった。

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それでも心は揺れた。アマの指導者になりたい気持ちに変わりはないが、プロ野球の1位指名。しかも巨人である。川上監督は同じ熊本の出身。プロに行っても面白いかも…と考えないわけではなかった。煮え切らない本人をよそに、地元では気の早い知人らが後援会立ち上げの準備を始めるなどちょっとした騒動にまでなっていた。

いよいよ川上監督自ら名古屋の大学に乗り込んで入団の説得に入った。が先ほどの言葉で小林秀一投手は巨人への入団を思いとどまった。
結局、小林は巨人に入団しなかった。

川上監督の説得の言葉が逆に作用した。

初心を貫き、熊谷組に進み、その後母校愛知学院大で野球部監督に就任した。本職は同大学の助教授(准教授)。野球だけで生計を立てているわけではなかった。

91年秋の明治神宮野球大会で愛知学院大は全国の強豪大学を倒し優勝。大学野球界の頂点に立った。巨人への入団を拒否してから18年の歳月が流れていた。
小林秀一投手の指名に対し事前にあいさつもなかったように、巨人の小林指名は実は窮余の策だった。

当時は指名できる順番をくじ引きによって決めていたが、巨人は前年の11番目と同様、くじ運に恵まれず73年も10番目。巨人は当時2人の選手に照準を定めていたが、10番くじではかなり厳しい状況だった。

そのうちの1人、「巨人なら万々歳。でも在京球団ならOK」としていた東京六大学のプリンス、慶応大の山下大輔遊撃手が1番くじの大洋に指名され、“意中の恋人”は残り1人。

南海、近鉄、日本ハム、中日と過ぎてその人の名前はコールされなかったが、6番目の阪急が果敢に攻めてきた。

「江川卓、18歳、投手、作新学院高校」。甲子園で“怪物”と呼ばれた江川は当初から、慶応進学を打ち出しプロ拒否の姿勢だったが「巨人ならプロ入り」という情報をキャッチしており、巨人としては自信を持ってドラフトに臨んでいた。

ただ、怖かったのはダメもとで体当たりしてくる球団が出てくることだったが、悪い予感は的中。現在のように重複した場合は抽選という制度もなく、巨人は江川をあきらめざるを得なかった。

そこで浮上したのが、大学選手権で武宮敏明スカウト部長が目の当たりにした小林の快投。緩急を使い、優勝候補の早稲田大を準々決勝で5安打完封した際の投球が頭の中に残っていた。

投手補強を目標にしていた巨人は、これといって他に欲しい選手もなく、それならばというで小林を指名。

しかし、調査不足が明らかで、本人の意向を確かめたわけでなかった。

その結果一大学生にひじ鉄を食らうことになった。巨人の当時の担当スカウトら編成の関係者は減俸処分を受けた。

小林が巨人に入っていたらどうなっていたか。それは分からない。ただ、巨人1位のご利益は相当なもので「監督は巨人に1位指名された投手だった、という看板で野球部の学生は割りと言うことをよく聞く」とか。

良くも悪くも巨人軍の存在というのは大きい。と小林秀一さんは思った次第。

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小林秀一の経歴

国籍 : 日本
出身地: 熊本県天草郡大矢野町(現:上天草市)
生年月日 :1951年4月20日(68歳)
選手情報
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴

八代第一高等学校
愛知学院大学
熊谷組

監督歴:愛知学院大学

熊本県出身
小学生の頃から野球を始め、投手として活躍。
八代第一高等学校(現:秀岳館高等学校)に進学

甲子園出場の経験は無いものの、高校時代より名前は知られていた。

1970年、野球の才能を買われて愛知学院大学へ進学。
第2回日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。
即戦力の右投げアンダースロー投手として評価され、プロのスカウトからも注目されていた選手であった。

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小林秀一の今現在

小林秀一さんは今現在愛知県に住んでいます。

1. 1987/01~1988/03 愛知学院大学 事務局 大学事務局/庶務課 野球部監督
2. 1988/04~1991/02 愛知学院大学 教養部 教養部本属 助手
3. 1991/03~1994/03 愛知学院大学 教養部 教養部本属 講師
4. 1994/04~2007/03 愛知学院大学 教養部 教養部本属 助教授
5. 2007/04~ 愛知学院大学 教養部 教養部本属 准教授

1987年1月から愛知学院大学の野球部監督に就任
今現在は教養部のスポーツ科学の准教授です。
当時のジャイアンツ1位指名を拒否したことは後悔していないといいます。

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