伊能忠敬の日本地図つくりの目的は?地球の大きさを知りたかった?

伊能忠敬は地球の大きさが知りたかった!

 

8月6日放送の『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系列、毎週日曜21:58~23:05)で、番組史上初めて、一般から公募した塾生を教室に招いての“一般開放授業”を開催します。

 

今回、中田敦彦が取り上げるのは“伊能忠敬”。これまで海外の偉人について多く解説してきた中田敦彦が、初めて日本の偉人について掘り下げていく。伊能忠敬は、江戸時代の商人であり、測量家。初めて正確な日本地図を作成した人物として知られている。彼は55歳から日本各地を歩いて測量を開始したが、なぜその年齢まで夢を追うことができなかったのか……!?

中田は、そこに伊能忠敬の性格が大きく関わっていると分析。はたして伊能忠敬の“しくじり性格”とは!? そして、伊能忠敬の生涯から中田先生が導き出した教訓とは!?

 

伊能忠敬の仕事

伊能忠敬は、下総の佐原(現千葉県香取市)で、事業家として成功した。

その後49歳で隠居し、50歳のときまさに五十の手習いの諺を地で行くかの如く江戸に出て、天文・暦学を学び始めた。

今で言うと恐らく80歳位、伊能忠敬を参考にすると勇気が湧いてくるのです。

 

その修業中きっかけをつかんで地図作りを始め、シニア世代の17年をかけて日本全土を実地測量し、初めての実測による日本全図の作成という壮挙を成し遂げました。

日本地図を作成するのに17年の歳月。

しかも今と違って交通機関はありません。

徒歩による測量です。

隠居したおじいさんが17年かけて偉業を成し遂げたのです。

隠居後、在職中を遥かに上回る大仕事を達成したことが、いまの世の中の関心をよんで、静かなブームとなっています。

 

若い頃の伊能忠敬

10歳になったとき父が迎えにきて、17歳までを父のもとで成長した。
この間、常陸の某寺に住み込んで和尚から和算を習ったとか、土浦の医者宅に住み込んで医術や四書五経を習ったといわれています。。

父はこの頃には分家していたが、忠敬は二男。継ぐべき家がない者にとっては、医者、僧侶、学者などしか身を立てる道がなかった時代です。

父の勧めで生きる道を真剣に探していたのでしょう。

幕府役人が家に泊まって計算をしているのを見てすぐ理解したとか、世話になっている親戚の平山季忠の代理で土木工事の指図をさせたら、人使いがなかなか上手かったと伝えられています。

気のきいた、目はしの効く若者だったことは間違いないでしょう。

17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚。

家業に出精して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかったのです。

49歳で隠居したときは家産三万両だったという。

 

伊能忠敬は日本地図を作るのが目的ではなかった!?

伊能忠敬、55歳にして江戸を出発。江戸と蝦夷までの距離を正確に、正確に…。この距離が間違っていると地球の直径値も狂います。正確に、正確に…3年を掛けて東日本の測量を終えて帰ってきます。

だけど正確に調べるには2つの地点は距離が必要。そこで『江戸と蝦夷(北海道)くらい離れてば大丈夫じゃね?』となったのです。

だけど、当時の蝦夷は幕府の許可が必要。その名目として『正確な地図を作って日本の役に立ちたい』と幕府に依頼して受理されたのです。

当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものでした!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのです。

そして目的であった地球の直径の計算に取り掛かります。算出された答えは”約4万キロ”。これは、実際に分かっている地球の直径と1/1000ほどの誤差しかないという正確な数値でした。

 

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